禁じられた遊び('52)  ルネ・クレマン <愛情対象を喪失した幼女の悲哀の儀式>

 本作のストーリーラインの言及に入る前に、この映画と付き合うに際して重要な視座を持たねばならないと考えている事柄がある。

 それはこの映画が、幼児を主人公しにした「絶対反戦」のメッセージをもって語られることで、全く文句の付けようがない見地に立って力強く表現されていることだ。

  しかも大戦前夜の対独関係に於いて、醜態を曝したフランスを母国とする一人の映画人が、本国内部の農村を舞台にして、ナチの爆撃機による大量殺戮の犠牲になった、一人の孤児の心象世界をテーマとする映画を、「絶対反戦」の「絶対的表現」によって固めようとしたのである。
 
 「ベネチア映画祭金獅子賞受賞。これはベネチア映画祭の最高の賞である。純粋な叙情性と力強い表現力で無垢な子供を描き、戦争の悲劇を訴えた作品である」
 
 これが「禁じられた遊び」の導入となって、その「絶対反戦」の無敵なる映像展開が開かれていく。

 しかし、一種のプロパガンダ性の強い本作のような名画と対峙するには、限りなく客観的な歴史的認識と幼児心理学による解析、更には映像によるメッセージ性の認知条件などの問題意識を必要とするように思われる。

 本作のように無敵な反戦映画と付き合うには、このような把握と覚悟が求められるのだ。
 
 以上が、私の独断と偏見に基づいての蛇足的見解だが、このようなある種の特殊性を持った映画と対峙するとき、その作品の完成度が高い程、観る方もまた相当の武装を強いられるということである。

 
 1940年6月、パリ陥落で南仏に移動するフランス難民たちに向って、ドイツの爆撃機が何十発もの爆弾を投下した。

 恐怖で引き攣(つ)る難民たちの中にパニックが起り、彼らの命がけの移動は、なお続く爆撃機の機銃掃射の恐怖に繋がった。

 そのとき、一人の幼女が抱えていた小犬が、爆音に反応して、幼女の庇護から離れて路傍の中枢に飛び出して行った。幼女は愛犬を必死に追い駆ける。

 「ポーレット!」

 娘を追う両親の声が轟いた。

 女が小犬を抱きとめたとき、そこに爆撃機の機銃掃射が直線的なラインを描いて、幼女の両親の身体に降り注いでいく。母の影に隠れて難を逃れた幼女は、動かない母の顔をまじまじと眺めて、状況の意味を呑み込めないでいた。

  まもなく幼女は愛犬を抱いて、難民の家族の台車に救われる。

 しかし「死んでるよ」と言われて、愛犬を川に捨てられた幼女は、単身その家族から離れて、流されていく愛犬の死骸を追った。

 愛犬を川から何とか取り戻した幼女は、森の中を彷徨(さまよ)っていく。

 そこに牛を追った少年が現われて、一人ぼっちの幼女に事情を尋ねた。

 幼女は少年に、犬と両親の死を告げた。しかし幼女には、死の観念の形成が不充分である。だから幼女の悲しみは、動かない愛犬に対する寂しさの方が優先的であった。
 
 「一緒に来いよ」と少年。
 「犬は?」と幼女。
 「別のをやるから捨てな」と少年。
  
 幼女は愛犬を傍らに置いて、少年について行った。

 二人は子供らしい自己紹介をして、名前を確認し合った。幼女の名は、ポーレット。少年の名はミシェル。

 明らかに、小学生の中学年くらいのように見えるミシェルは、ポーレットを農家である自宅に連れて行った。



(人生論的映画評論/禁じられた遊び('52)  ルネ・クレマン <愛情対象を喪失した幼女の悲哀の儀式>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2008/11/blog-post_06.html