人間をサイボーグにさせない自由の幅  文学的な、あまりにも文学的な

 役割が人間を規定すると言われる。


 役割が人間を規定することを否定しないということは、人間は役割によって決定されるという命題を肯定することと同義ではない。

 そこに人間の、人間としての自由の幅がある。

  この自由の幅が人間をサイボーグにさせないのである。

  人間には、役割によって全てが決定されてしまうに足る完全な能力性など全く持ち合わせていないのだ。

 人間は、人間を支配し切る能力を持ってしまうほど完全な存在ではないということだ。

 いつもどこかで、人間は人間を支配し切れずに怠惰を晒すのである。

  これは、人間の支配欲や征服感情の際限のなさとも矛盾しない。

 どれほど人間を支配しようとも、支配し切れぬもどかしさが生き残されて、遂に支配の戦線から離脱してしまう不徹底さを克服し得るほど、私たちの自我は堅固ではない。

 人間の征服能力など、高々そのレベルなのだ。

 私たちは、相手の心までをも征服し切れないからである。

 ここに、人間の自由の幅が生まれるのである。

 この幅が人間を生かし、遊ばせるのだ。
 
 
(心の風景  /人間をサイボーグにさせない自由の幅  文学的な、あまりにも文学的な  )より抜粋http://www.freezilx2g.com/2012/06/blog-post_8478.html(7月5日よりアドレスが変わりました)