ストレスとの良き付き合い方

 そもそも、ストレスとは何だろうか。

 「大辞林」によれば、「精神緊張・心労・苦痛・寒冷・感染などごく普通にみられる刺激(ストレッサー)が原因で引き起こされる生体機能の変化。一般には、精神的・肉体的に負担となる刺激や状況をいう」と言うこと。

 次に、「ウィキペディア」によると、「物理的、あるいは精神的に外部から力が加わっている状態を表す。本来の英単語の意味としては圧力、応力、緊張などがあげられる。(略)緊張としてのストレスはプレッシャーと呼ぶ」と言うらしい。
 
 そして、有名なハンス・セリエ(カナダの生理学者)の「ストレス学説」について紹介する。上記の説明に集約される学説だが、彼はそれを「適応」という概念によって積極的に定義づけたのである。

 以下の通りである。

 「生体には、外からの刺激に対してこれに対応するため自らを変化させる働きがあり、その変化は刺激の内容のいかんを問わず、常に一定であることを発見した。そして生体の変化をストレイン、それを引き起こす要因としてのストレッサーが加わった結果、生体にストレインが生ずる、この一連の過程をストレスと名づけた。ストレスとは、外部環境の変化に対応するために、自動的に起こる心身の状態である。ストレスは、いわば、私たちが生きていることの証拠である」(「ストレスマネジメント協会」テキストより)

 要するに、セリエのストレスについての仮説とは、「生体がストレスを受けると、一連の症状で反応して適応するという学説」(大辞林)という風に括れるだろう。

 いずれの説明ももっともらしくて、私としては特に異論がない。ただ私の場合、ストレスの概念をもっと単純に把握している。

 要するに、ストレスとは、大脳皮質に伝わった刺激がアドレナリン(画像は、IUPAC命名法による物質名で、アドレナリンのこと)、エンドルフィン等の脳内ホルモンの分泌によって過度な緊張を生むことで、「前頭前野(自我?)の中で感受された不具合な情報」という風に単純に捉えられる何かである。

 確かにストレスは、自我が明瞭に感知しない生理的反応をも含むものであろうが、ストレスが問題になるのは、多くの場合、自我がその抑制の許容臨界点を意識する事態の認知に関わるときであり、それこそが問題なのである。それが私の基本的把握である。

 言葉を換えれば、自我に侵入してきた情報の中で、それとの不具合さを感受した情報に対して、いかに適応し得るかという意識を出来させるときの反応こそが、既にストレスへの自我の発動となるということ。それ以外ではないだろう。

 では、「ストレスコーピング」(ストレスへの対処行動)という言葉が重要視される時代の中で、そのストレスへの自我の発動の様態について、私なりに考えてみたい。
 
 思うに、その様態には三つの方法があるというのが、私の仮説である。

 以下、簡単に言及していく。
 
 その一。「分散法」。

 読んで字の如く、アルコールの助けを借りたり、カラオケ、ゴルフ、ドライブ、ショッピング等で愉悦したりして、極めて分りやすい方法でストレスを分散するという方法だ。この効用については、言わずもがなのこと。
 
 その二。「転換法」。

 これは、ストレスをストレスと考えずに発想転換し、寧ろ、それを前向きに捉えることで、ストレス処理を図るというポジティブな方法論。これについては、最も日本人らしい方法論として、一頃、喧(かまびす)しく喧伝されていたので説明の要はないだろう。
 
 その三。「対峙法」。

 対峙法はストレスを正攻法に受容し、全人格的にそれを引受ける処理法である。これはある意味で、「恐怖突入」の方術を不可避とするので、相当の覚悟が求められる場合がある。

 以上、いずれもストレス処理に有効であると同時に、寧ろ、それらの均衡を逸脱しない適切な方略による対応こそ緊要であると言えようか。

 また、そのストレスの重量感にもよるが、それらの発動様態は微妙に異なる各自の性格類型に対応した方法論のようにも見える。

 大雑把に言えば、エピキュリアンは分散法。能動思考者は転換法。そして内面重視の発想から離れられない自我の主は、畢竟(ひっきょう)、「対峙法」ということになるだろうか。
 
 厳しい時代状況下にあっても、世はなお、エピキュリアンの快走のテンポが自壊していない事実は、近年、その「暴走」に翳りが指摘されているとは言え、バラエティ全盛のゴールデンタイムのラインアップを見れば瞭然とする。

 日常に鬱積したストレスを様々に分散し、それぞれのサイズに見合ったストレス瓶がオーバーフローすることがないように心を砕くのは、エピキュリアンとしての最低限の礼儀か。彼らのストレス処理は、同時にアイデンティティ充足を果たすものになるから、極めて可視的な文化前線を張り出す効果をも生むだろう。

 小林恭二(ユーモアな作風で知られる作家)の「ゼウスガーデン衰亡史」という小説に登場した鮫入りプールとか、木造のジェットコースターというような快楽装置に類するコピーが、まるで、人々の意思決定を誘導するかの如く巷に強迫的に氾濫しているから、人々のストレス分散グッズは留まるところを知らない。しかし快楽装置のエンドレスな増強が、却って人々のストレッサーにならないのか。快楽の連鎖は、快楽の地獄の様相というものと板子一枚で繋がっているのである。

 ジョーク含みで言えば、このラインを絶つには、バンカラ族の歴史的復権を待望するしかないのか。

 また、その昔話題を呼んだ「脳内革命」(注1)や、船井本、稲盛イズム(注2)を網羅する前向きマーチが、「発想の転換」というテーマをくどいほど奏で続ける真面目の革命を、果たして直向(ひたむ)きに走れるのか、少々胡散臭い。

 その確信的な自己肯定イズムが固執する、「誠意は通ず」というイデオロギーは、逆流に対して意外に脆く、呆れるほど底も浅い。「絶対肯定」(?)で支えられている分だけ情緒過多に流れやすく、私権への悪意の稀薄なフライングも止まらないようにも見える。バンカラ革命に人々の本気が簡単に集合するとは思えないが、熱気を帯びた声高な主張の求心力は決して侮れないのだ。
 
 然るに、ストレスは基本的に自前の哲学で処理することを心がけるべきなのである。沸騰した状況のうちに、無原則に、内側の未消化な情念を攪拌させるべきではない。一切を己自身に返していくことだ。己の名の下で、己がプールさせてしまった不快情報の一切を食べ尽くしてしまうことだ。

 安直に匿名に潜り込むな。

 旗を立てて進むときと、臨終の床にあるときだけは、せめて己の実体を、その直接性において、そこだけは凛として立ち上げ続けていかねばならないのである。

 
(「心の風景/ストレスとの良き付き合い方」より)http://www.freezilx2g.com/2008/10/blog-post_5941.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)