魔境への誘い

 ハレとケ。

 日常性の向うに、それを脅かすパワーを内包する、幾つかの尖った非日常的な世界がある。上手に駆使することで日常性を潤わせ、その日常性に区切りを付け、自我に自己完結感を届けさせてくれるような微毒な快楽がそこに含まれているので、それは人々を深々と捕捉してしまうのである。

 それらは「性」であり、「祭り」であり、「薬」であり、「暴力」である。全てが死のイメージに繋がっていて、人々をいつでもその魔境に誘(いざな)って止まないのだ。

 「性」―― そのイメージは、「失楽園」(写真)、腹上死、家庭崩壊等という極大値的事象をも含むが、そこまでいかなくとも、それがもたらす微毒の本質は、「性の絶頂感は小さな死である」(「エロティシズム」筑摩書房刊)と、J・バタイユ(注1)が把握している通りであるが、自明の理でもあるだろう。

 最近、仙台のあるマンションで「乱交パーティー」が摘発されたことに対して、「被害者がいないのに、なぜ乱交パーティーが罪になるのか」などと、ネット上で疑問が相次いでいたが、 「趣味の会」と言う名で実施されたパーティーの内実が、「マンションの一室とはいえ、不特定多数の者が、公然と性行為をしていたからです。参加者が、ほかの全裸の参加者を見ることができる状態でした。ストリップショーでも、性行為を客に見せるようであればダメです。お金を取ったこととは、関係ありません。知人同士でも、状況によっては公然わいせつに問われます」(仙台中央署の副署長の言葉)という説明に納得できない者がいたら、その御仁は「性」を管理する国家の使命についてあまりに無知過ぎるか、それとも「性」の問題に非武装過ぎるのである。(J-CASTニュースより)

 「暴力」について言えば、これは何も極道の面々の専売特許などではなく、虐めや家庭内暴力児童虐待、ストーカー、レイプ(その本質は性的満足感の達成と言うより、支配欲や暴力衝動の発散に近い)、器物損壊や威力業務妨害(ネットでの悪戯半分の、爆破・殺人予告等も)や偽計業務妨害(用もないのに救急車を呼ぶなど)、行政対象暴力、院内暴力、集団暴行、それに格闘技(特に、何でもありの「ヴァーリ・トゥード」を許容する「アルティメット」や「エクストリーム」、更に「コマンドサンボ」や「マーシャル・アーツ」等の軍隊格闘技など)(注2)や、軍隊のような合法的暴力までも網羅するから、その表現主体は、えも言われぬ恍惚のシャワーを被浴することになるだろう。

 「薬」または、「薬物」―― それは、日常性を轢断(れきだん)させるほどの脅威となる覚醒剤やヘロイン(注3)、それに比較的、耐性を持たないとされる大麻(注4)、コカイン(注5)等のアップダウン系を含めた非合法ドラッグや、「赤ひげ薬局」(注6)の強精薬品、加えて、バイアグラ、セイノール(女性用塗り薬)、強力ラール(早漏防止薬)等の著名なラインアップによって代表されそうだが、しかしその影響力の大きさにおいてアルコールの右に出るものはないだろう。

 非合法ドラッグの最大の問題が、「耐性獲得による抑制系の崩壊」という事態にあるが、アルコールの嗜癖性による依存性の問題も、ドラッグほどの警戒感を持たない分、ストレスホルモン(コルチゾール)の過剰分泌等によって嗜好度を高めやすく、相当に深刻な事態を招来するケースもある。

 詰まる所、薬の最大の脅威は、その快感の捕捉力の暴力性にこそ存在し、その圧倒的な無秩序の中で、それを必要とする主体の自我を壊しかねないところにあると言えるだろう。

 自我は人間の司令塔である。

 生命を守り、社会的適応を果たす自我(これが自我の二大機能であると、私は考えている)が、集中的なアルコールを浴びて磨耗し、制御機能の作動に支障を来たすのである。

 恐らく、自我の深い所に発生源を持つ多くのアルコール依存症者たちは、酩酊するためにこそアルコールを求めて止まないのだ。彼らは常に、魔境と地続きに生きているとも言えようか。酩酊し、撹乱し、ますます深い闇に潜っていくために、一群の人々は薬を手放せないでいるかのようである。深い闇の奥で、人々はどのような自己完結を果たすのであろうか。

 マリリン・モンローもチャールズ・マンソン(「シャロン・テート事件・注7」の指示者)も、、最も身近にいて、愛情を注がねばならない肉親の不在によって穿(うが)たれた穴を、結局、ドラッグによって補償するしかなかった人生以外を選択できず、いずれも自滅に向かってひた走ったのである。

 深い闇の向うで果たす擬似的な自己完結の儀式に、一体、込み上げてくるどのような感情の氾濫があったと言うのだろうか。過去を補償するだけの人生しか選択できない生の中に、集中的に魔境が立ち上って来るかのようである。

 彼らは単に、「現在」という時間を借りて、強迫的に深まってきた「過去」という名の闇を、瞬時に払わずにはいられないかのように駆け抜けた。闇を払う儀式だけが、「過去」を完結させてくれるのか。「過去」を完結させるためにこそ、「現在」があったのか。強迫され続けた「現在」があったのか。魔境のルーツの、その裸形のラインの様状がそこにある。

 そして「祭り」こそ、近代の最も合法的で、管理され、解毒処理された快楽装置である。そこでは、殆ど死のイメージが脱色され、様々に加工され、商品価値を持つ何かとして市場に供されている。

 近代以前でも村落内の小行事は多かったが、しかし季節の節目となる大行事の様相は、小行事のそれとは比べものにならないほど、ハレに向かうエネルギーに満ちていた文化を、殆どそれ以外にない表現力によって充分に立ち上げていた。それに比べると、現代の「祭り」の多くは、人々が待ちに待ったハレの行事の解放系というよりも、著しく日常性と接続していて、そこにこそ、ある種の魔境性を脱色した現代の祭事性の本質が潜んでいるとも言える。

 人類史上の際立った快楽装置は、そこに含まれる死のイメージ=非生産的で、脱秩序的なエネルギーへの警戒から、当然の如く、権力サイドの神経を磨耗させ、権力によるシビアな支配と管理を必然化させている。

 阿片、組織暴力、組織売春等は言うに及ばず、どれほど防衛しても死者を出してしまうリオのカーニバルは言わずもがな、スペインの「牛追い祭り」として著名なサン・フェルミン祭は、死傷者が現出してしまう夏祭りであるが故に、海外からの観光客を多く集めるとも言えるのだが、今や環境団体による反対運動も活発化してきている現状だ。無論、そこに当局の万全の準備が、最低限の防波堤の機能を果たしているのは言うまでもない。

 大地の神に捧げるために血を流すことを前提にする、疑似喧嘩の祭りとして有名なボリビアのティンク、更に、他人に危害を加えないものの、自分の体に針や矢を貫通させた状態で練り歩く、マレーシアのタイプーサムのような奇祭等の伝統的な祭事が、もし統制の埒外に置かれたらどうなるか。答えるまでもないだろう。

 サンボドロモで弾ける、リオのカーニバルのような典型的な祭事でなくても、我が国の夏祭りの全ては警察当局の管理下に置かれ、道路規制を踏まえて予定調和のラインに流れていく。管理に隙が出ると暴発の恐れがないとは言えないからだ。

 例えば、近年の浅草三社祭では、神輿の上に男たちが乗って過剰なパフォーマンスをする行為を禁じているが、これは、東京都の迷惑防止条例の中の「粗暴行為禁止条項」に相当するからである。

 因みに、青森ねぶた祭りの際の「カラス跳人(はねと)」の暴走を取り締まる当局の把握もまた、同様の文脈である。また、毎年話題になる、黒石寺(岩手県)の蘇民祭(厳冬の中の祭り)が警察の厳しい管理下に置かれるのは、全裸を許容する祭事の奇習性が、反社会的なパフォーマンスへの含みとして当局に把握されるからである。既にこれらの行動様態に対する認識のうちに、一切の祭事の脱秩序的性格が示されていると言えるだろう。

 言わずもがなのことだが、現代の祭りは、必ずしも、「神への感謝」という文脈に集約されるものにはなっていない。寧ろ、非日常性への架橋という祭りの持つ本質的な性格が、近代社会に集中的に現出した過剰消費の経済システムと強力にリンクすることで、非日常的なレジャー様態の多くが現代的な祭事性を形成していると考えることもできる。勿論、そこでは充分に魔境への接続が絶たれている。祭りの拡散こそ、現代社会の欠落した統合性の現れであるとも言えるだろう。
 
 穿(うが)って言えば、共同体を脱出した都市消費者は、それぞれの日常性の中に、その日常性を暫時、脱出するための非日常的な時間を人工的に繋いでいって、その往還によってもたらせた快楽をたっぷりと消費するという構図が、そこにある。一人一人が、各自の祭りを愉しむのである。この祭りの中に、それぞれの自己完結を求めるのである。

 エンドレスな日常を、「私(私たち)の祭り」の中で区切りをつけるというこの試みが、果たしていつでも成就しているかどうかは疑問だが、自己完結感を求めた現代人の方法論の多くが、身近なるレジャー消費の中でこそ、様々に実現している現実を無視するわけにはいかないだろう。

 
(「心の風景/魔境への誘い」より)http://www.freezilx2g.com/2008/11/blog-post_09.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)