不眠という病理

 近年、睡眠に関する研究は飛躍的に進んできて、多くの事柄が科学的に解明されてきているようだが、私たちに最も身近な、不眠に関する研究に関しては、ようやく緒についたらしい。(写真はヘリコプターから眺めた東京の夜景)

 不眠を科学的に説明し、その解決法が容易に見つかるかどうか疑わしいほどに、そこには心理的要因が大きな影響を与えているように思われる。不眠を病理とする以上、それを治癒しなければならない症状であるという認知が、少なくとも不眠症者について遍く存在するということである。一切の病理は、病理を自己認知(病識)する者の、その認知という事実性において存在するのである。

 自分は具合が悪い。この具合の悪さを放置できない。それは既に治療すべき何ものかであるという認知の流れを持つ者は、紛れもなく病人であるだろう。偶(たま)さか、気候的な暑さに反応して37度の熱に驚き、これを一度以上下げないと日常性に支障を来たすと信じる者は、その捕われの観念の分だけ充分に病理であると言えるのである。

 不眠症も同じである。

 8時間睡眠をとらないと、一日の日常的ノルマを失敗なしにクリアする自信がないという者にとって、床に就くほど頭が冴えて、遂にその半分くらいの睡眠しかとれなかった日を快適に受容することができようか。

 かの者は恐らく、その日の仕事上、人間関係での些細なトラブルの原因を自らの不眠に帰する公算が高い。僅かに感知する疲労感を不眠のせいにすることで、この者の自我に、「不眠の自己」に加えて「疲労する自己」の認知が付着する。この認知が次第に増幅していって、業務を遂行する集中力を食(は)んでいったら、もう殆どその者は、病識者のレベルに達していると見ていい。

 早退し、早目の夕食を済まし、早目の床に就いたとする。本人の思惑とは矛盾して、さして肉体的疲労のストックがないのに、無理な入床が却って不眠の病識を強めてしまうことで、強迫的睡眠の観念に自我は固く拉致されてしまう。「あと自分には、9時間の余裕しかないなのだ」とか、「もし今夜も眠れなかったら、明日の仕事は駄目になる」などと考えるようになったら、不眠の地獄から解放される日はいよいよ遠くなるだろう。残り時間のカウントダウンを始めたら、精神が自在性を失っている証拠である。不眠とは自我の病なのだ。
 
 本来、自我は身体の生命維持を統括する司令塔だから、夜も更けてきたら、「人は皆、そうであらねばならないという」日常的な律動に合わせるようにして、自らの身体器官に、「眠れよ」と発令する。これは、私たちの生体時計が、光線の刺激低下による「概日リズム」(「夜が来たら眠くなる」という生理現象)によって保持され、科学的には、メラトニン(睡眠ホルモン)の血液中濃度が高まることと多いに関与するだろう。

 しかし何某かの理由で、この脳の発令が過剰に意識を縛ることで、覚醒の状態を容易に閉じられないジレンマを出来させてしまう場合がある。だから益々、入眠が困難になるという厄介な状況から解放されにくくなっていく。結局、睡眠に関する自我の認知の枠組みを変えない限り、この悪循環に終わりが来ないのである。
 
 人は一週間も断眠状態が続いたら生命に支障を来たすだろうが、この断眠方法によって自殺を遂げたという報告を、私は未だに聞いたことがない。

 不眠自殺とか、不眠死とかいう症例がなかったからこそ、不眠研究が遅れたのである。不眠の果てに眠剤を過剰服用して、一見、自殺的な事故死を遂げたヒース・レジャー(ハリウッド俳優)の例も含めて、不眠それ自身では、人は死なないのだ。この事実をこそ認知すべきである。

 これは、不眠の持続が体に悪いことを知る脳が、その心地悪き持続を遮断するために、不眠の補償に必ず動くということを示している。白昼にウトウトするという事実がそれである。実は不眠者はこれを恐れるから、夜の入眠を過激なほど意識し、それが覚醒に繋がってしまうとも言えるのだ。

 まず、この枠組みを再編することではないか。

 精神の縛りを緩めて、それをもっと自在にすることではないか。

 精神が自在性を手に入れたら、人間の問題の多くは解決できてしまうだろう。しかし、それが中々難しいのだ。その内側に拘泥する何かを持つからこそ、自我は「何者かである自己」を生きると言える。拘泥する何ものも持たない自我の無秩序に、通常私たちは生きられないのである。 要は、何に拘り、何を捨てるかという、その心の均衡性の問題に尽きる。少なくとも、不眠への拘泥が過剰なほど心身の健康を損なう現実を認知すべきであろう。

 思うに、近代社会の健康幻想の肥大化こそが、私たちの不眠の病の基底にあるとは言えないか。果して、目眩(めくるめ)く妖しい輝きを放つ、この高度大衆消費社会に呼吸を繋ぐ私たちは、この極めて厄介な枠組を変換できるだろうか。
 
 
(「心の風景/不眠という病理」より)http://www.freezilx2g.com/2008/11/blog-post_4428.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)