男の虚栄、女の虚栄

 この国の男たちは、自分たちの非決断を簡単に認めないように見える。
 
 女に渡したヘゲモニーを奪い返すつもりもない。権威に依拠する覚悟にも欠ける。権威を継続させるには相当のエネルギーがいるからだ。そこまで疲れたくないのである。
 
 家庭は癒しの場所であった方がいい。我が子を怖がらせて失う愛情よりも、家族の機嫌を取って手に入れる情緒的充足感の方が、遥かに快適である。この国には、『父』は殆ど存在しないのだ。昔から、それはあまり変わらないのである。

 確かに、『父』になろうとした人たちは多くいただろう。

 然るに、『父』になることを強いる時代の要請と、『父』になることで満たされる虚栄の捌け口が一つになって、男たちは背筋を真顔で突き立てていたが、それも『御時世』で流されてしまったら、誰もそこへ戻って来ようとしなかったのだ。誰も本気で、『父』になろうとはしなかったのである。
 
 『父』を貫くには、この国の男たちは優し過ぎるのだ。

 弟を殺し、親友を殺したチンギス・ハーンのように生きるには、男たちが背負うものは小さ過ぎる。情感的過ぎる。女たちが背負うものと大して変わらないのだ。昨日遊んだ家畜を平気で殺せる民族と、ペットの墓参りを欠かせない民族の差が、そこに厳然とある。
 
 だが、虚栄心だけは充分過ぎるくらいある。

 あらゆるものが近接し、差異に敏感な同質性社会の中で育まれた自我は決して強固なものにはならないが、その自我が拠っている共同体のエリアの中で蔑まれるわけにはいかないのだ。逃げ場を持たない小宇宙で安定した関係枠を設営し、そこで足元を掬われない位置を確保せねばならないのである。
 
 この風土が、『勝ち気の精神』を作り出した。

 決して気が強くないが、見透かされ、蔑まれることを極端に恐れる感情傾向がそれである。これが虚栄心である。この虚栄心が、この国の人々を、いつも静かなる競争に駆り立ててきたのだ。この国では、競争の対象は常に身近に存在するのである。

 自分を良く知る者たちの視線だけが、この国ではモラルになり、規範となる。従って、自分を良く知らないエリアには、お上から下された法規だけが生きていて、もうそこにはモラルの強制力が働かない。だから、しばしば傍若無人になる。旅の恥も平気で掻き捨てられるのだ。

 この国では、ただ隣とだけ、すぐ傍にいる他者とだけ競争する。

 だから彼らの視線だけが、常に気になるのである。これは男も女も、さして変わらないメンタリティのように見えるのだ。
 
 ところで、この国の男たちが自分たちの非決断を認知しているように見えないのは、本来、内実を持たない『武士道的理想主義』の名残なのか。

 女たちに『頼りにしてまっせ』(『夫婦善哉』の世界/写真)という本音を隠すのは、或いは、女たちからの、『そこまでは寄ってくれるな』というメタ・メッセージを哀しくも受容してしまうからなのか。露骨な依存を認めたら、この国の男たちは、自我の最後の砦であるかのような虚栄心すらもかなぐり捨てるかも知れない、と女たちは恐れているのか。

h確かに、一切を裸にした男たちには魅力がないのだろう。
 
 だからと言って、女たちは別にこの国の男たちにとって観音様であり続け、彼らを抱擁し続けるつもりはないように思われる。やはりここぞというときには、男たちに動いて欲しいのであり、その思いを信じたいのである。

 決定的局面ですら決断しない男たちには、張り付く衣裳も何もない。せめて吠えてくれ、と女たちは待望しているのか。どうやら、この国の女たちは前線で体を張るつもりはなさそうなのだ。

 戦後、男たちが悲嘆に暮れていたとき、この国で最も元気だったのは、一貫して女たちだった。
 
 女たちにとって、戦争中の銃後の生活は決して快適なものではなく、身内と死別したり、食糧難等で辛酸を舐め尽くしたりしていたはずである。だからこそと言うべきか、終戦直後の空洞期にあって、重荷を解かれたかのような女たちの馬車馬の如き行動力には、蓋(けだ)し眼を見張らせるものがあった。

 女たちにとって、一体昨日までの戦争とは何であったのか、と問うにも気が引けるほどの軽快なステップを目の当りにしてしまうと、『今、このときの現実』から自在に発動できるその独特の生活感覚に、殆んど圧倒される思いがする。少なくとも、この国の女たちは『正義⇔不正義』とか、『善⇔悪』というような二元論の観念を容易に蹴飛ばせるから、執拗に自我を引っ張っていくこともないのだろう。

 男たちが『転向』ゲームにローリングしたり、デカダンな風俗に嵌ったり、『戦後派文学』の中で徒(いたずら)に深刻ぶって、それぞれの自我を観念ゲームの中で甚振(いたぶ)ったりしている間も、女たちは子供のミルクを求めて、喧騒の街中をひた走っていた。女たちには、もともと転向問題などは存在せず、単に一時(いっとき)、辛い『御時世』に乗り合わせていた不幸を嘆くだけであったのかも知れない。

 重石が取れようと何だろうと、女たちは日々の糧を満たすために奔走せねばならないのである。女たちには、『戦中』とか、『戦後』等の概念は土台無縁なのだ。彼女たちには、『今、このときの現実』という時間感覚だけが決定的なのであろう。
 
 黒澤明監督が、その初期作品である『一番美しく』で描写した女たちは、戦後に至っても、その持ち前の活力で、その時々の困難を突き破っていくはずである。『石中先生行状記』(成瀬巳喜男監督)で、人の馬車に眠りこけたあの明るい娘は、現代に蘇れば、繁華街を身体疾駆する女子高生であったとしても全く可笑しくないのだ。
 
 この国では、一貫して女たちは元気であり、男たちは常に一歩引いている。この国の男たちに根強い虚栄心(実は、『見透かされることへの恐怖感』→『勝ち気の精神』)が、しばしば権力的ポーズを垣間見せるが、多くは長く続かず、家庭にこもったら忽ちの内に足元を掬(すく)われて、その本来の甘さを露呈するのである。
 
 
(「心の風景/男の虚栄、女の虚栄 」より)http://www.freezilx2g.com/2008/12/blog-post_15.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)