怨みの連鎖

 占領軍がやって来た。

 あっという間に、空気が変色した。先遣隊(注1)を送り出して、敗戦日本の実情をリサーチするほどに入念だったマッカーサー(写真)の警戒心は、敗戦国民のあまりの従順さにあっさりと氷解したのである。

 この国の人々は、要求もしないのにRAA(注2)なる組織を作り、米軍兵士の下半身の処理を引き受けようとさえした。

 また、マッカーサーには、連日ラブレターまがいの手紙(注3)が次々に届けられ、「いつまでも日本においで下さるよう、お願い申し上げます」という類の封書が積み上げられていく。

アメリカ人の手で日本が治められたら、私共は幸福です」
 
このような文章を書いた人々は、その数年前まで、以下のように確かに叫んでいた国の面々だったのだ。
 
「出て来い、ニミッツマッカーサー。出てくりゃ、地獄へ突き落とす」
 
こんなマッカーサー憎しの感情は、空気の変色で一遍に吹っ飛んでしまった。マッカーサーへのテロどころではない。日本中が挙げて、「元帥様」の子になりたかったのである。この変わり身の早さを、袖井林次郎氏(注4)は、こう書いた。
 
 「日本人がこの外来の支配者を、何とかして自分の内部に取り込もうとする努力のあらわれ」(「占領した者された者」サイマル出版会刊)であると。
 
 要するに、地に堕ちた天皇制絶対主義への信仰の空洞を、とりあえず、マッカーサー信仰によって、間に合わせ的に埋めようとしたのである。そして、このことは逆に言えば、日本人にとって、天皇制への信仰がいかに強力に仮構されたものであったかということを示しているのであろうか。しかしそれを仮構するために、この国の為政者たちがどれほど苦労したかについて、既に私たちは知っている。

 ともあれ、近代天皇制への信仰の空洞を埋めてくれたマッカーサーに代わって、日本人はやがて、「人間宣言」を経た天皇への緩やかな個人信仰にシフトすることで、政治的民主主義との価値の共有に成功する。そこには、社会主義を放棄してドイツ統一を果たした一部東独官僚たちの、深刻な思想的苦悩に類する衝撃が走らなかった。それどころか、日本人が内部に摂取したのはマッカーサー信仰のみならず、アメリカ的価値観そのものであったと言える。

 しかし、この日本人の心情には屈折がある。

 自己を完膚なきまでに叩きのめした敵国との「怨みの連鎖」を潜在化し、相手を許容し、称え、局面において従属化することで自己の惨めさを相対化し、その決定的な記憶を、時間の彼方に置き去りにしようとするのである。

 これは確かに、表面的には成功した。

 アメリカ的価値観の同化吸収は、まるで、他に忘れたいものがあるかのように拙速に走った付けが顕在化するまでは、文化の表層において、十年も経たないうちにヤンキーボーイが量産されることになった。しかし潜在化した感情が、時折、溜まったものを吐き出さなくては気が済まないかのようにして、しばしば、歴史の目立ったシーンで突き上げられてきたのだ。

 反基地闘争(注5)とか、60年安保(注6)のような政治的シーンのみならず、力道山ブームとか、日米経済摩擦(注7)等のシーンでは、明らかに、両国の「怨みの連鎖」が未解消であることを示していると言えよう。

 相手に同化することで差異を消そうとする戦略が有効なのは、相手との差異が決定的な落差を持たない場合である。差異を消すには、両国の差異は決定的でありすぎたのだ。

 信仰と敵対、同化と排除、親愛と怨念、同盟と自立、憧憬と反発といった矛盾する思いが、この国の対米感性を繊細、且つ複雑なものにしてきた歴史に、果たしてそろそろ終わりが来るのか、私は知らない。

 二十世紀は、紛う方なくアメリカの世紀であった。

 二十一世紀もまた、この国の世紀が続くなら、過去を記憶する者が健在であるうちは、この国への私たちの特殊な思いは消えることはなさそうだ。


(注1)マッカーサー到着に臨んで、安全面の確認を含む事前打ち合わせのために、厚木に連合国軍幹部、士官将校らが到着した。

(注2)特殊慰安施設協会のこと。内務省が日本の良家の子女の貞操を守るために、占領軍将兵らの「下半身の処理」の施策として設立したものだが、反対運動があって、1946年に廃止。

(注3)袖井林二郎によると、日本国民がマッカーサー宛に出した手紙は、およそ「50万通」と言われている。

(注4)「1932(昭和7)年、宮城県に生まれる。54年、早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業、同大学院政治学研究科修士課程修了後、59年から米カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)大学院で政治学を研究、65年帰国。専門はアメリカ政治論。76年、法政大学教授、99年、同名誉教授。2004年、政治学博士。『マッカーサーの二千日』で大宅壮一ノンフィクション賞毎日出版文化賞を受賞」(「Kinokuniya BookWeb」HPより引用)

(注5)米軍基地が集中する沖縄での反基地闘争は例外として、「本土」の場合を例にとると、「内灘事件(闘争)」と「砂川事件(闘争)」が有名である。

 前者は、1952年に端を発し、石川県内灘村にある米軍試射場の無期限な使用に村民らが反対して、全国から集まった支援者を巻き込んでの大規模な反基地闘争を展開し、57年になって、米軍撤収で終息し、土地を全面返還するに至った。

 また後者は、1957年に、立川市(当時北多摩郡砂川町)にある米軍立川基地拡張のための測量の際、デモ隊が米軍基地内に不法侵入したことで捕捉され、起訴された事件で、最終的に被告人の有罪が確定した。

(注6)日米安全保障条約の改定を阻止するために、全国的な規模で展開された闘争で、全学連を中心とする学生たちの反対運動が、メディアで積極的に取り上げられたこともあって、一時(いっとき)、戦後最大の国民運動の様相を呈した。

 ハガチー事件(大統領秘書官ハガチーがデモ隊に包囲され、ヘリで救出された事件)→東大生の死→学生デモ隊の暴力化→メディアの批判による運動の沈静化→アイゼンハワー大統領の来日延期→岸首相辞任という流れによって、反米闘争の一面を顕在化させた、戦後の画期となる一大国民運動は収拾されていったのである。

(注7)自動車摩擦等に象徴される、安価で性能の高い日本製品の、米国市場への進出による貿易摩擦
 
 
(「心の風景/怨みの連鎖」より)http://www.freezilx2g.com/2008/11/blog-post_2987.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)