ゲームの強迫

 高度成長以降、この国は大きく変わってしまった。(写真は集団就職の風景)

 固形石鹸で髪を洗っていた時代は、永遠に戻らない。あの頃私たちは、近隣から洩れ聞こえてくるピアノの音色に、何の反応も示さなかった。
 
 思えば、終戦から間もない1949年に制作された、「野良犬」(黒澤明監督)という映画のラストシーンで、犯人を追う刑事の追走の描写の合間に、長閑(のどか)な郊外の、中流家庭から聞こえてくる娘のピアノの音色が、貧窮の故に犯罪に手を染めた男の惨めな逃走を、対比的に浮き上がらせる印象的な描写があった。

しかし私には、このピアノの音色が地域の空気をひどく刺激する何かになっていない、その没交渉性が妙に印象深く残っている。それは、犯人の男の心を刺激する幸福なるアイテムでは必ずしもなかったのだ。

 あの頃は犯人だけではなく、この国の人々は一様に貧しかったのだ。因みに、犯人の男には復員兵という屈折と、なけなしの財産をそっくり盗まれたという怨念が、そのまま社会への憎悪に転嫁していくような心の弱さがあって、それが、刑事のコルトを奪った果ての強盗殺人に流れていっただけだった。だから別に、それを貧しさ故の犯罪という把握で括る次元の問題ではないのである。

 「天国と地獄」(黒澤明監督)というエキサイティングな作品では、ブルジョアへの憎悪が犯罪の重要なモチーフになっていたが、ここでの犯人の上昇志向の挫折もまた、当時の人々の平均的な感情を代表するものではなかった。私にはひどく違和感だけが残った映像作品であり、声高に叫んで止まない映像作家の観念の暴走のように思えて仕方なかったのである。

 均しく貧しい時代では、抜きん出たブルジョアの存在は嫉妬の対象にすらならないのである。「勝気のメンタリティ」(注1)をコアにする日本人は、恐らく、遥か彼方の貴族的生活世界を羨望するなどということは考えられない。雲の上の生活を楽しむ人々の存在は、殆ど意識の埒外に置かれていたのである。人々が許せないのは、いつだって自分たちと同じ仲間だと思っていた連中が「成金」に化けていくという「所業」である。その「成金」が、いかにも「成金」的な振舞いに走る行為を、人々は許さないのである。

 この国の人々は、川の向うの貴族とではなく、川のこちら側の尖った、近接する他者と常に争ってしまうということ、その一点に尽きるだろう。人々は、いつも隣と争ってしまうのである。隣の、少し目立った差異が気になるのだ。だから、隣から少し目立った差異を付けられなければ、ここでは何も起らない。起りようがないのである。

 この起りようのなさを保証していた「平等の貧困」が、いつしか崩れていく。

 崩していった元凶は、一切の空気を変えた嵐のような尖った時代の到来だった。

 波動する日常が目眩(めくるめ)く快楽にすっかり呑みこまれ、彩り鮮やかにしていくばかりだった。人々はいつしか、隣から洩れ聞こえるエレクトーンの音色や、その子弟の勉強風景や、ガレージに納まる新車の眩しさを無視できなくなってきた。高度経済成長による豊かさの獲得は、自分だけが豊かでなくなることへの新しい不安の様態を、人々の内側に過剰なまでに張り付けていったのである。

 絶対的な貧しさが崩れることで、共同体の秩序が波動する。

 キブツ(注2)内にラジカセや様々な電化製品が入ることで、関係の直接性が崩れていったように、秩序を支えた絶対の枠組みが部分の尖りによって安定を欠き始めたら、もう、その崩れは加速的になる。絶対の豊かさに逢着するまで、そこでの関係はどこまでも相対的であり、常に何かある種の欠乏感に晒されるのである。ここに、「自分だけが外れ籤(くじ)を引きたくない」と想念させて止まないような人生ゲームが、其処彼処(そこかしこ)で開かれていったのである。「幸福競争」というゲームが、それであった。
 
 常に近接する隣と競争してしまう国の人々が最も多用するフレーズ、それは「頑張れ」、「頑張ろう」、「頑張らなきゃ」であった。

 「頑張ること」のメンタリティから、「急げ」、「速く」という駆け足の美学が生まれた。それを可能にしたのは、「頑張って、急げば何とかなる」という時代の気分であった。この時代の気分の根柢には、この国の人々に根強い公平観念や平等主義がある。「横一線の原理」の中で仕立てられたこれらのイデオロギーは、殆ど、人々の精神性の襞(ひだ)に深々と張り付いているのだ。

 こんな土壌の中に、不平等な豊かさが、ごく身近な世界に立ち現れたらどうなるか。

 当然、競争になってしまうのだ。横一線に並んでいた隣の目立った尖りを、この国の過半の人々が無視できるわけがないのである。そこに発生する微妙な差異に反応しない人々は、この国では変人の扱いを受けるか、何か異物を見る眼で遠巻きに眺望されるだけであろうう。

 なぜなら、人々の話題の多くは、知らずのうちに時代との関わりの中に生まれるから、時代の加速的な変化が話題の其処彼処に張り付くことで、情報の共有化が図られてしまうのである。そこに全く乗っていかない人は、正真正銘の変人となるしかなのだ。その変人に何か際立った能力があって、それが周囲で認知されていたら、彼は突き抜けた世界で固有の宇宙を愉しむことができるだろうが、それは例外と呼ぶしかないのである。

 どこまでも空気の主潮は、「幸福競争」に流れていった。その把握が正解だったのだ。

 
(「心の風景/ゲームの強迫」より)http://www.freezilx2g.com/2008/11/blog-post_5804.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)