氾濫する『情感系映画』の背景にあるもの ― 邦画ブームの陥穽

 成瀬巳喜男の「流れる」についての評論を擱筆(かくひつ)したとき、どうしても言及したいテーマが内側から沸き起こってきた。

 「邦画ブーム」と言われる、この国の現在の有りようの社会学的背景について、些か大袈裟だが、年来の思いを記述してみたいと思ったのである。題して「氾濫する『情感系映画』の背景にあるもの――邦画ブームの陥穽」。

 成瀬映画への言及を端緒に、一貫して挑発的な物言いをする。

 結論から言えば、私たちの日常をかくも深く描き出した成瀬の作品群のレベルに、現代の情緒過多な日本映画が全く届いていないことを、今更嘆いても始まらないということだ。

 過剰な感傷と馬鹿げたストーリー展開と、大袈裟な演出。
 
 不思議なことに、映画賞を取る作品ほどそれらの傾向が強く、いつもどこかで余計な部分がはみ出てしまっているという体たらく。

 思えば、「流れる」が上映されたときのキネ旬の評価は8位だった。7位の「台風騒動記」(監督山本薩夫)にも負けてしまうとは、驚きというより呆れ返るほどである。もっとも、「女が階段を上るとき」や「銀座化粧」、「妻」、「乱れる」といった傑作などはランキングの対象外だった。今に至るまで、私たちは成瀬を、「浮雲」の監督としてしか評価してこなかったのだ。

洪水のように澎湃(ほうはい)した数多の大衆娯楽映画や、その極北としての独立プロ系の左翼映画全盛の時代下にあって、しばしば独善的で、不必要なまでの超俗的な表現や、反体制を気取った時代の、秩序破壊の気分に酔った尖った文化状況とは無縁な男の、あまりに地味で、幸(さち)薄き者たちの不恰好な生きざまを見せつけられることの不快感に耐え難かったのか、いずれにせよ、プロフェッショナルなる「評論家」も、数多の「映画ファン」も、成瀬の作品群について、「辛口の女性映画」か、せいぜい「メロドラマの巨匠」という、あまりにステレオタイプで、しばしば、「褒め殺し」にも見えるフラットな評価を下達するかの如く、一種通俗映画のカテゴリーの内に、それらを封じ込めることで、長きに渡る邦画史の末端をほんの少し占有し得るポジションを、それ以外にない、愚昧なる定番的認知によって付与してきただけのように思われるのである。

 一貫して成瀬の作品は、「女性映画の巨匠」と言われ続けながらも(揶揄?)、小津や黒澤のような評価を受けることはなかった。人々は、格好良いヒーローが画面を支配する黒澤的映像世界の、そのハッピーエンドのヒロイズムに酔うことはできても、成瀬的な「やるせなさ」をストレートに受容しなかったのである。

 そして、時代は変容した。大きく変容した。

 「欲望自然主義」(注1)の大衆文化の流れが極まったかのような、過剰なるものの多様な状況下での氾濫は、いよいよ時代を嗅ぎ取る私たちの嗅覚を無秩序化していって、金さえ払えば、狭い地球との束の間の別離を謳歌できる、所謂、「宇宙ビジネス」の時代の幕を開いてしまったのだ。

 現在、国際宇宙ステーションに滞在する時間が、男性宇宙飛行士で400日以上、女性飛行士でさえも、180日以上という記録を打ち立てる時代が本当にやって来てしまったのである。

 「スペースシップ1&2」の例を引き合いに出すまでもなく、いよいよ、数千万円単位の金を出せば、「宇宙の神秘」を簡単に体験することが可能になるのだ。

 冗談めいたことを書けば、1970年代初頭に、アンドレイ・タルコフスキーが映像化(「惑星ソラリス」)した未来世界の恐怖と神秘、即ち、「プラズマ状の海」に翻弄される心理学者の異常なる内的体験についての物語の、そのほんのとば口辺りの、究めつけの超俗的な世界を追体験することができるかも知れないのだ。

 地上にあっても、時速574キロのTGV(フランス国有鉄道の高速列車)の試験運転が成功し、それがテレビで生中継され、フランス国民が欣喜雀躍する模様が印象的に映し出されていた。

 わが国の次世代新幹線(N700系)は、スピードこそTGVに劣るとは言え、空気バネを活用した「車体傾斜方式」を採用することで、曲線区間においても速度を維持するほどの進化を果たすに至ったことを思えば、その「超高速的進化の未来」のイメージが透けて見えるといっていい。

 今、私たちがどれほど「持続可能な生活と環境」を保障し、「スローフード」(注2)、「ロハス」(注3)、「サスティナブル・ツーリズム」(注4)なる心地良い概念に懐古的な親和力を感じたとしても、その実態は、詰まるところ、「より速く」、「より遠くに」、「より豊かに」、「より快適に」という本音の思いを簡単に捨てられず、多くの場合、より心地良い文化の蜜を、自分だけが味わえない不幸を嘆く時代の幕を下ろせないようにしか見えないのだ。それは殆ど、不必要なほどの欺瞞性に満ちていると言っていい。

 余計なことを書くようだが、これらの欺瞞性が、それよりも過剰な理念と結合することで、そこに「確信という幻想」を胚胎させてしまうとき、かの者たちは、確信的な「エコ・テロリスト」(注5)として、その主体を雄雄しく立ち上げていくという始末の悪さを晒すのである。現実の話だ。


 奇麗事の文言をうんざりするほど捨てていくくせに、その実、自分の生活スタイルだけは変えようとしない、その「天晴れ」なるダブルスタンダードの見事さ。

 そう言えば、温暖化防止を声高に主張しながら、ビジネス・ジェットで通勤する著名な州知事のケースはともあれ、「不機嫌な真実」で華やかなるオスカー受賞の場で、「温暖化防止に取り組む誠実な政治家」のイメージを振り撒いたアメリカ民主党の大物議員氏は、その直後、自宅における「温暖化を促進させる生活実態」を批判されて、まもなくその生活を、「本来の環境哲学」に見合ったサイズにシフトしたという、殆ど漫画的な実話に接して、その滑稽さに思わず吹き出してしまったほど。

 結局、人々は「もっと快適で、豊かな生活実感」を求めて、今はまだ朧(おぼろ)げにしか見えないが、やがてくっきりとその魔性の姿を現わすであろう次なる「快楽装置」を作り出していくに違いないのである。

 それにしても、「快楽装置」の中枢的メーカーの本家本元であるアメリカのこと。

 「マグドナルド」、「コーラ」、「ハリウッドムービー」に象徴されるこの国の文化戦略は見事であるという他はない。

 例の有名な、「3S政策」(その根拠は未だ不分明)を想起してみよう。

 「セックス」、「スポーツ」、「スクリーン」に代表されるとも言われるアメリカの「文化戦略」(?)は、殆どグローバル化し、世界の市場を独占しつつある現状だ。

 とりわけ、ポップカルチャーとしての「スクリーン」におけるハリウッド戦略の市場の席巻は、「ソフトパワー」(注6)の不気味な底力を縦横に発揮して、少しずつ豊かになりつつある国民国家の心臓部に、切っ先鋭くダイレクトに侵入していったことは周知の事実。

 今やハリウッドムービーに集約される、「面白ければ何でもいい」という世界は、そこに嘘臭い感動譚と予定調和の定番的な括りによって、鑑賞後の心地良さを存分に保障してしまうので、殆ど一人勝ちの感がある。

 そして、北米に輸出したペットフードに混入された、メラミン(小麦グルテン中に検出)とシアヌル酸の化学反応物によって、多くのペットの命を奪い、例の幼児向け玩具として人気キャラである、「機関車トーマス」の製品の塗料から、何と鉛の成分が検出されたことで問題化した企業を輩出した国こそ、「先富論」(注7)の本家本元である隣国中国であった。

 経済特区等での大都市における「改革解放」の過剰なうねりは、紛う方なく、永遠(?)に「都市戸籍」を獲得できない「盲流」(注8)と呼ばれる現象を出来させ、この過激な「改革解放」=「資本主義化」の流れの中で、世界に200校もの「孔子学院」(「孔子ブランド」の影響下で、中国語の普及を目指す)を開設する勢いの過剰な文化外交を展開する現実に象徴されるほどに、顕著な変貌を遂げている文化の一角に、いよいよ、ハリウッド化を加速させつつある映画産業の巨大な奔流があると言っていい。

 この国の、唯一の国立映画大学である北京電影学院に集う者たちの中に、ハリウッドに対抗する意識を明言するスタッフが何人もいて、さすがにそのドキュメンタリー(BS放送「チャン・イーモウ 中国映画を語る」2007年5月放送)を見た時には、禁断の実を味わった人々の、その殆ど確信的な流れ方のさまに、複雑極まる思いで感じ入ったほどだった。

 もうこの国の映画表現のフィールドは、グローバルなポップカルチャーを視野に入れるほどに変貌を遂げ、北京電影学院出身のジャ・ジャンクーの個性的な映像世界を許容しても、地味ながらも「中国の現在」を描き続ける意思を表出して止まない、チャン・ユアン監督(注9)のような映像作家(「ただいま」という作品で有名))の作品発表が、製作的に困難になるという事情を実感せざるを得ないのである。

 それは、「ただいま」に集約される、繊細で、群を抜いた人間ドラマの秀作を世に出すメンタリティーが、欲望自然主義の澎湃(ほうはい)の中で劣化したと把握しても間違っていないだろう。チャン・ツィーに代表される中国のアイドル女優が、年間100億を越える収入を得る、一部のハリウッドスターたちのラインに並ぶのも、もう時間の問題かも知れない。

 韓国映画がそうであるように、中国映画もまた、近年、そこにビジネスラインによって許容枠を拡大させつつも、ハリウッド映画の基幹文脈である「予定調和の善悪二元論」という枠内に、「CGを駆使したバーチャルアクション」や、「セックス」、「暴力」などの刺激的描写を適当にシャッフルさせ、どこまでも観る者を飽きさせない過剰な演出手法によってまとめ上げていく、一見、「垢抜けた」かのような巧妙なスキルを手に入れてしまったら、もうそれを簡単に手放すことはないのであろうか。

 キラーコンテンツと信じる最強のソフトカードが、複雑な因子を抱えつつ進化させていく宿命に、そこに関わる主体を存分に疲弊させたりしても、その過半は一過的なものであり、仮にそうでなくとも、様々な快楽装置を作り出した先達たちの屍を跨(また)いで、後発のランナーたちはどこまでも未来志向を崩すことなく、「欲望自然主義」の限りなく蠱惑(こわく)的な稜線を一気に抜けていくことのみを求めて、「より天に近い」と幻想する、そこだけは輝くように眩いロードの行進を決して捨てたりしないのだ。

 そのあまりに蠱惑(こわく)的な、一種バーチャルワールドの迷妄の森は、人々の欲望ラインに印象深く触れてしまったら、もうその森からの確信的な脱出を図る覚悟を絶え絶えにさせていくに違いない。

 
(「心の風景/氾濫する『情感系映画』の背景にあるもの ― 邦画ブームの陥穽 」より)http://www.freezilx2g.com/2008/11/blog-post_22.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)