終わりなき、姿態の見えない悪ガキたちとの戦争

 序  学習塾


 見かけは、単に古いだけの木造平屋建ての小さな家屋だった。

 しかし、些か塗料が錆び落ちた玄関を開けて、その中に踏み入ってみたら驚いた。天井の白い木枠は相当くすんでいて、そこからぶら下がる豆電球は如何にも頼りない照明光として、小さく揺らいでいた。

 更に驚いたのは、力を込めないと開かない台所の扉の、その向こうに無作法に広がる小さなスポットの薄汚さ。

 換気扇は幾重もの油に塗りたくられていて、殆ど機能不全の状態だった。しかも、この台所を大の男が踏み込んだだけで、ミシミシと音がするその脆弱性は、明らかに湿気のために内側から腐朽している惨状を示すものであった。

 新しい畳に変えられていた和室の周囲を巡らせば、如何にも頼りなげな柱が必死に家屋全体を支えているという感じで、大地震が来れば容易に自壊するだろうというイメージに結ばれていたのだ。

 ともあれ私は、この古い家屋を借り受けて、およそ17年間余、細(ささ)やかな学習塾を運営してきた。

 場所は、東京都練馬区西大泉の一角(写真は現在の西大泉の一角)。

 眼の前が畑になっている広い農家を曲線的な道路が走っていて、そこだけは東京郊外の長閑(のどか)なイメージを残していた。


 1  「晩成舎」


 その学習塾に、私は「晩成舎」という名を与えた。

 「大器晩成」という意味もあるが、当時、私が最も尊敬の念を抱いていた依田勉三(十勝原野を開拓した明治の男)が興した「晩成社」という名に肖(あやか)ったものだ。

 そのネーミングの内に、既に、当時の私の「ロマンチシズム」の残像が張り付いているが、実際の所、私の理念先行の「教育実践」の試みは、試行錯誤による混乱と迷妄の連続だったような気がする。

 それは、見かけだけは質素な木造平屋の落ち着きを見せていた私の生活拠点が、実はネズミ、ゴキブリの巣窟であったと同時に、旧来の汲み取り便所で用を足さざるを得なかった内部構造性の「不潔感」に象徴される、その「脱文明的な近寄り難さ」にも似て、「見かけ=理想」と「内実=現実」の圧倒的落差感を端的に検証してしまう何かであった。

 以上、簡単に、当時の「状況」の「概観」をスケッチして見たが、今思うと、正直に言って、「よくもこんな条件の中で、『晩成社』という名に恥じぬ『仕事』をスタートさせる気になったものだ」という感懐を抱かざるを得ないのだ。

 それでも当時を振り返ってみると、心地良い経験も数多あり、懐かしさの感情も捨てきれないのは事実。

 ただ、あの17年間という時間が、それなしに現在の自分が存在しないと思えるほどに、私の人生にとって如何に重要な意味づけを持っていたかについては、およそ言葉に表せないものとなっている。

 今でも、授業の準備にあくせくして冷や汗をかくような夢を始終(しじゅう)見ていて、眼が覚めたときに、びっしょり汗をかいている経験が続いているが、恐らく、これは死ぬまで変わらないような気がする。

 あの17年間の重量感は、「経済的自立の困難さ」、「モデルなき実践による試行錯誤の連鎖」、「世間からの孤立と偏見」、「独力突破の不安と恐怖」、「非行・不登校の問題」、「家庭との様々なクロスと関係の構築」、「地元の学校との連携の問題」、「ADHD学習障害)、広汎性発達障害自閉症)の児童生徒への指導の問題」、「野球教室や家庭教師との両立」、「進学指導と補習指導との両立」、「様々な事件への対応」等々、と列記していくと、何か人生の多くの要素が備わっていたと思える感覚が作り出したものなのだろう。

 そんな中で、私にとって最も神経に障(さわ)った問題を挙げれば、何と言っても、近所の中学生たちによる度重なる嫌がらせであるだろう。

 本稿では、自己充足感、達成感が得られた心地良い経験ではなく、この類の心地悪き経験についてのみ言及する。なぜなら、この経験を語ることが、「子供に毅然として立ち向かえない、この国の大人たちの『非行動』」について語ることに繋がるからであり、この問題意識こそが、私をして、「全身リアリスト」を標榜する最も重要なモチーフになっているからでもある。

 私自身、この経験の中で、自分の内側になお残存していた、「ロマンチシズム」や感傷の類と絶縁できたと考えている。

 要するに、奇麗事が一切通用しない世界がごく身近な世界に存在するということが、まさにその奇麗事によって開塾した私自身の情感系を木っ端微塵(こっぱみじん)に破砕することによって、否が応でも実感的に検証させられてしまったのだ。

 それについて触れる前に、私の塾の仕事の内実について簡単にスケッチして見る。

 正直言えば、「晩成舎」という名の私の塾は、「学習についていけない子供たちをサポートしたい」というごく単純な動機によって始められたもので、手始めに、仲間内で楽しんでいた、「野球教室」に参加する児童生徒に呼びかけて実現したものである。そのときのパンフレットも残っているが、一言で要約すれば、「皆で助け合って勉強しよう」という青臭い理念系の産物だった。

 理念を具体的に書けば、「できる子が、できない子を教える」ということであり、これに関しては、最後まで相応に貫徹できていたと言えないだろう。何より、いちいち私が介在し、状況に見合った適切な指示を与える手続きが不可欠だったからだ。

 加えて、入塾して来た子供たちの学年がバラバラでありながら、決して広くない二つの部屋を利用しての学習であったが故に、「できる子が、できない子を教える」という基本理念を具現するのは困難だったのである。

 現実問題を言えば、「できない子」を教える「できる子」の人数が限られていて、教師が私一人だけの小規模の塾という制約にあっては、私自身が「できない子」に掛りっ切りになってしまった事態を不可避にしたのである。

 加えて、「何とか自分の力でできる子」の場合は、しばしば入念な学習指導の不徹底さが問題となって、悔いを残すことが多くなったのも事実だ。それでも、「何とか自分の力でできる子」の指導を自分のプライベートな時間を利用して補填してきたが、正直な所、完璧だったとは言い難かった。

 入念な学習指導の難しさ ―― それこそ、「皆で助け合って勉強しよう」という青臭い理念系が逸早(いちはや)く褪(あ)せて、現実の状況に見合った色彩に変色するさまを、リアルなまでに実感せざるを得ない直接的な「学習成果」となったものである。

 自ら設定した状況が、その中で具現するはずの理念系の快走を頓挫(とんざ)させる事態をも、普通の理性的感覚によって予測し得ない脆弱さ ―― その最たる事例が、そこにあった。

 無論、その種の誤謬の原因が、「青臭い」ながらも、「皆で助け合って勉強しよう」という理念それ自身にあるのではない事は承知している。ただ、理念と現実の距離感覚の落差を計算できない非合理性が拠って立つ場所に、安直に凭(もた)れかかってしまうそのメンタリティは、充分に「過剰なる何か」であったということだ。

 その「過剰なる何か」を、現実の社会への適応に必要な分だけは削り取ることの「常識」の認知というものが、実は高みから俯瞰(ふかん)する者のように、「体制順応」という枠組みだけで把握できない真実を実感的に経験してしまったのである。

 私の中で、緩やかに何かが壊れて、突沸(とっぷつ)するかの如く、何かが分娩されていったのか。

 まもなく、生徒が増えるにつれて、私は指導の合理化を図るために、一人一人が入室して来たら、自分の課題が終わった後の指示も含めて、その日に学習すべき内容を詳細に書いたメモを予(あらかじ)め用意するようになった。

 ドイルは「学級の無秩序」について、「多様性」、「同時性」、「即時性」、「予測困難性」というキーワードによって説明していたと記憶するが、「晩成舎」のケースは「個人個人に合った学習体制」の確立を目指したが故に、中3生を対象とした「夏季教室」、「冬季教室」を除けば、一斉授業が成立しないので、我が教室の世界は、まさに「学級の無秩序」性そのものの現象を常態化していたと言えるだろう。

 そんな状況下で、限りなく静謐(せいひつ)な環境を作り出し、そこで年次の異なる生徒たちに学習の継続を求めるのは、並大抵のことではなかった。だから私は、いつも大声をあげて注意する、「怖い先生」のイメージを払拭できなかったように思われるのである。

 実際、相手が女の子であろうとなかろうと、私の叱咤は近所中に響き渡っていたようだった。このような状況下で、生徒が集中する時間を確保するには、それ以外の方法論は不可能であると確信していたのだ。

 かつて、生徒の進路の問題で相談を受けた際に、その母子と共に、例の有名な「自由の森学園」を見学しに行ったことがあったが、生徒が勝手な行為をしていても全く注意することのない教師たちを見ていて、「教育」と「学習」の区別がつかないようなその「指導法」に対して、私は多いに疑問を持った経験がある。「晩成舎」の場合は、まかり間違ってもこの手法には絶対に馴染まないと思ったものだ。

 以上が、「晩成舎」の学習スタイルのアウトラインである。


(「心の風景/終わりなき、姿態の見えない悪ガキたちとの戦争」より)http://www.freezilx2g.com/2009/08/blog-post.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)