今日、この日を如何に生きるか

 奇跡的傑作との評価も高い「幕末太陽傳」の評論を書き終ったとき、その作り手である川島雄三(写真)の宿痾(しゅくあ)について、私はしばし思いを巡らせていた。

 作品の主人公の佐平次がそうであったように、川島雄三もまた、「生きるための薬」と縁が切れない生活を日常化していたからである。

 「他人事ではないな」

 それは、私自身の「業」の如き時間とも重なって、「くすんだ天井の広がり」に嘆息しつつ、映像とその作り手、更にそれを鑑賞する者の、そこだけは繋がっているだろう、ネガティブなラインに否が応でも引き摺られていく暗鬱さを、容易に払拭し切れない日常性以外ではなかったからだ。
 
 映像作家、川島雄三は、「筋萎縮性側索硬化症」(ALS)とも、「脊髄性筋萎縮症」(SMA)とも言われる同質性の難病に冒されていて、恐らく、他人には理解できないような、「死」と隣り合わせの精神世界を、内深くに抱え込んでいたと思われる。

 それは、全身の筋力低下と筋萎縮が確実に進行する「死の病」である。

 彼の場合は遺伝性の疾患とも言われているが、その原因が明瞭に特定されることなく、従って症状の苛酷な進行を防ぎ得る、効果的な内科的療法が確立されていない現実を引き受ける人生しか、そこには待機していないなかったのである。

 筋力の進行的な劣化を約束された者の辛さを、果たして他人がどこまで理解し得るか甚だ疑問だが、人格の崩壊によって自我機能が徐々に削られていく、一部の重篤アルツハイマー認知症の恐怖とは別に、この難病の真の怖さは、ある意味で、その本来的な自我機能の剥落が見られない辛さの内にあるとも言えるかも知れない。

 ある一定のペースで筋力が劣化していく現存在性を、まさに、名状し難い恐怖感の内に認知してしまう時間だけが、「約束された日常性」であるとき、人はそこでどのような人生を繋いでいくことができるのだろうか。
 
 私もまた、「ブラウン=セガール症候群」(注)という難病を生きる脊髄損傷患者である。

 私の場合、進行性の筋力低下の病気とは異なるが、しかし、老化に随伴する筋力劣化の恐怖を日々に感じ取っていて、その現実は、この病気を発症した2000年時点の筋力に比べると、既に半分以下の機能しか持ち得ない。

 明日になったら、「恒久的寝たきり患者」になるかも知れないという恐怖に加えて、中枢性疼痛の地獄の日々を繋いでいかねばならない恐怖が、間断なく、我が自我を削り取って止まないのだ。
 
 痛みと痺れと、筋肉劣化の日々の恐怖の中、しばしばふっと、幾人かの文化人の名を思い起す。それは正岡子規であり、クリストファー・リーヴであり、そして川島雄三である。いずれも、「死」を日常的に感じつつ、残された寿命を彼らなりの固有の時間を繋いでいった人たちだ。

 当然の如く、彼らの苦悶の深さと単純に比較できるものではないが、それでも彼らが日々に痛感したに違いない、「自分だけの辛さ」への想像力は否が応でも増幅してきてしまうのである。「自分だけの辛さ」を内側に結ぶ孤独感は、私たちの存在の有りようにおいて、無論、それだけが突出すべき特段の感情ではないが、少なくとも私の場合、相対的に「自分だけの辛さ」を必要以上に感じ取ってしまう、厄介な病理の如き何かが常に付きまとっているのようなのだ。

 そんな余分な感情が、私をして、「幕末太陽傳」のような作品に、些か「過剰防衛」的に反応してしまう癖を作り上げてしまったのだろうか。


(注)私の場合、脊髄の左半分が損傷することで運動麻痺になり、同時に. 脊髄の右半分が温度覚と痛覚の麻痺を出現させるという、極端な不具合の症状に日夜悩まされている。

 
 閑話休題

 ここで再び、川島雄三のこと。

 藤本義一の著書(「川島雄三、サヨナラだけが人生だ」河出書房新社刊)の中にある、川島自身の言葉。
 
 「師匠(藤本義一のこと・筆者注)、これはワチキが死ぬまで、誰にもいってはいかんのです。こんなことがあったといってはいかんのです。わかりましたか。いや、死んでからなら、かまわんでげす。死ぬのは、もうすぐでげす・・・」
 
 ここで「師匠」と川島が呼んだのは、当時、川島の弟子であった脚本家志望の藤本義一のこと。それは川島一流のジョークと言っていい。

 そんな個性的な男は、しかし明瞭に、自らに忍び寄る死の恐怖を感じ取っていた。身体の変化は正直なのである。彼にとって人生とは、既にその寿命をカウントされた時間の中で、その自我をギリギリまで表現させてくれるだろう内実そのものだった。だから彼は、生きるために薬を飲み続けたのだ。

 そんなエピソードが、藤本義一の著書の中にある。引用してみる。

 「二時間ばかりで、二人で2升近くの酒が空いた。俺は頭の芯に鈍い羽音が聞こえる感じがしたが、酒の酔は、頭の片隅に塊となって全身にはまわらなかった。緊張のせいもあったが、この人が一体どんな精神構造をもっていて、肉体の欠陥とどういうふうに結びついているのかを見守ろうとしているうちに、変な塊が頭の片隅に棲みついたといっていい。酒にむせたのか、それとも昔ながらに胸に痼疾(こしつ)があるのか、例の含み笑いの後には、空咳が出て、土鍋の湯気が一拭された。

 『水!』

 内線の電話に叫ぶと、老いた女中が竹編みの箱と水を持って現われ、十種類の薬がコップ一杯の水で次々と飲まれていった。橙色の糖衣錠もあれば散薬もあり、飴のようにねっとりと糸をひく半液状のものもあり、鮮やかな紅色の牡丹の蘂のようなかたちの棒状の薬が二つ折りの半紙の上にスプーンで掬い出された。

 『師匠、一体なんの薬を嚥(の)んではるんですか』
 というと、
 『生きるための薬です』

 口許に歪むような笑いがうかんだ。酔のまわったとろんとした眼で、体は座椅子に埋もれた姿勢をとり、口許の歪みは暫く消えなかった」(同書より/筆者段落構成)
 
 これを読む限り、川島雄三こそ「佐平次」であったことが想像されるだろう。佐平次の最後の言葉、「俺はまだまだ生きているんでい!」という捨て台詞は、まさに川島自身の人生へのマニフェストであったと言えようか。
 
 そして今、私もまた生きている。川島と同様に、残り時間をカウントしながらも生きている。

 そんな私の信条はシンプルなものだ。
 
 「今日、この日を如何に生きるか」
 
 この分りやすいが、それを実行するのがとても厄介なテーマを、日々に自覚しながら、私は呼吸を繋いでいる。

 「今日はこれをやる」という問題意識によって、殆ど手当たり次第に、映画評論を書き始めてから幾年かの時間が過ぎていった。一日もその作業を怠ることなく続けていて、気が付いてみたら厖大な量の原稿を書き溜めていた。それは同時に、人生論的な思考の継続であり、様々なテーマについての学習の日常化であった。

 そして、「私には今それしかない」という気持ちを切らずに現在に至っている。

 そんな私にとって、「生きる」とは、それ以外にない自分の表現様態を、呻吟しつつも、何とか繋いでいく作業の日常化のことである。

 そんな私が、未だ佐平次の心境にまで届いていない現実を認知した上で、限りなく表現爆発を繋いでいきたいという意志だけは、ここに刻んでおこう。その意志の継続こそ、私にとってそれ以外の選択肢が存在しないであろう、常に喫緊のテーマであるからだ。
 
 
(「心の風景/今日、この日を如何に生きるか」より)http://www.freezilx2g.com/2008/11/blog-post_28.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)