過分な優越感情に浸る新たな愚かしさ

 「集団にとっても個人にとっても、人生というものは風解と再構成、状況と形態の変化、及び死と再生の絶え間ない連続である。人生はまた行動と休止、待つことの休むこと、そして再び、しかし今度はちがうやり方で行動を開始することである。そして、いつも超えて行くべき新しい敷居がある。夏と冬の敷居、季節と歳の敷居、月や夜の敷居、出生という敷居、思春期や成人の敷居、老年の敷居、死の敷居、それに信ずる者にとって存在するあの世の敷居がある」

 この文章は、文化人類学で名高い、フランスのファン・ヘネップの名著、「通過儀礼」(写真)の中の一節で、私が最も好きな文章の一つでもある。

 敷居を作らずにいられない人間特有の行動様態を、端的に説明しているからだ。更に、「人間は常に境界を設定する存在であり、境界のこちら側とあちら側に異なった価値を賦与することによって、社会的空間を作り出す存在である」(佐々木宏幹「超自然的存在と象徴」)という一文を加えることで、鋭利な文化人類学的な分析ともなるだろう。

 要するに私たちは、「春が来るから儀礼を行うのではなく、儀礼を行うから春が来る」(同掲書)という文脈で生きているということだ。

 このように見ていくと、私たちの差異化感情は人間の関与する一切の事象に及んでいることが判然とする。私たちは時間を差異化し、その差異化感情に「進歩史観」が介在することで、未来は過去のコピーであってはならないと考えるのだ。

 これは対人間観において、意識を騒がせる何かとなっていく。即ち、自分の克服した愚かさを他者の中に見たつもりになることで、過分な優越感情に浸る新たな愚かしさを、まさに自らの内側に作り出してしまうのである。
 
 
(心の風景 「過分な優越感情に浸る新たな愚かしさ」 より)http://www.freezilx2g.com/2009/05/blog-post_17.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)