フォーレの小顕示

 私は元々、交響曲が好きではない。

 私の狭量な音楽的感性の中では、その騒々しさにどうしても馴染めないのである。敢えて挑発的に言ってしまえば、空間を仕切ったつもりの、その「大顕示」が苦手なのかもしれない。だからワグナーも、マーラーも、ベートーベン、ブルックナーも、皆まとめて敬遠したい。僅かに、モーツァルトブラームス、それにラフマニノフのその一部を愛好するだけだ。

 モーツァルトには、何と言っても「レクイエム」がある。

 これは絶品だ。心を打つ。25番や41番も悪くない。ルキーノ・ヴィスコンティ(20世紀を代表するイタリアの映画監督)の「家族の肖像」の重々しい展開は、モーツァルトの音楽と意外に嵌るのである。短調モーツァルトは、ベーズレ書簡(注)のアマデウスとは決定的に違うのだ。あの苦渋なる横顔の肖像画がそれを物語る。

 こういう例外を除けば、やはりオーケストラの「大顕示」に私は馴染めない。協奏曲ですら苦手である。知ったかぶって言えば、せいぜい、メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」までが許容範囲というところである。
 
 私を揺さぶるのは、バッハとフォーレ
 
 極めて素人的な感懐を漏らせば、特にチェロによる演奏が最高である。二人の曲は何でもいいが、フォーレに至っては、「弦楽四重奏ホ短調アレグロ」や「同アンダンテ」、「ピアノ三重奏アレグロ」などという難しいものまで好きだが、何と言っても、「レクイエム」。それに「シチリアーノ」、「パヴァーヌ」、「エレジー」、「夢のあとに」という、シンプルながら激しく心を揺さぶる旋律。これをチェロで演奏したら、もう何もいらない。
 
 フォーレ(絵画・ジョン・シンガー・サージェント作)は、小品の中でこそ輝きを放っている。

 そのシンプルで、他に何も加えない旋律の中に深い情趣がある。そこに宗教的な荘厳さを加えると、私の最も好きな「レクイエム」になる。父の霊前に供えたこの単品は、切々と神を求めるその宗教的感情の極みによって、ある種の普遍性に達していて、これほどまでに耳傾ける者の心を癒す旋律を私は知らない。
 
 思慮深く、理性的であった男の晩年は、彼に先行した音楽家たちの例に漏れず、難聴との戦いに明け暮れ、遂に引退を余儀なくされたのも束の間、肺炎に罹患し、世を去った。

 彼は最も「フランス的」だったためか、生前中の評価は低く、一貫して低所得に甘んじていたが、終始スモール・ステップ的な航跡を描き、常に自己完結を志向していったかのような気高き個人主義に、正直、私は強く打たれる。

 放恣で、自己愛的傾向が強く、鋭敏であるが故に、狷介(けんかい)なタイプの多い巨匠連の範疇に決して含まれないであろうこの男は、その清冽なイメージを裏切って、実は不倫の子を儲ける世俗性とも無縁ではなかった。

 フォーレもまた、音楽界のキリストではなかったのだ。それでいいのである。
 
 身を清めなければ渾身の一曲を生み出せないと信じる人も、それを信じない人も、この一曲を生み出したと信じる瞬間(とき)を得たならば、まずは至福に浸かって自己完結するのも悪くない。誰に何と言われようと、自己を小さく完結させていく技巧は、私たちが手に入れた知性の極めて重要な何かであるに違いないからだ。

 自分の表現世界を貫いたフォーレは、その死の床で二人の息子を呼び寄せて、こう語ったという。
 
 「私が死んだら、人は私の作品について色々言うだろう。だが悲しんではいけない。私はできるだけのことはやった。後は神の裁きにお任せするだけだ」
 
 フォーレは1924年、その79年の生涯を充分すぎるほど自己完結したのである。ここに加えるべき何もない。

 
(心の風景 「フォーレの小顕示」 より)http://www.freezilx2g.com/2008/11/blog-post_11.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)