「最高のルール」なるものと出会うまでの、最低のルールを通過する辛さ

ルールの設定は、敗者を救うためにあると同時に、勝者をも救うのだ。

戦いの場でのテン・カウントは勝敗の決着をつけると共に、スポーツの夜明けを告げる鐘でもあった。これは、坂井保之プロ野球経営評論家)の名言である。

 死体と出会うまで闘いつづける愚を回避できたことが、どれだけ多くの勝者を救ってきたことか。

スポーツの誕生は、光の近代を娯楽の中で検証して見せたともいえる。

 それにも拘らず、近年の「遺伝子ドーピング」(遺伝子治療によって筋肉を増強)の問題に象徴されるように、未知の領域が次々に開かれていく現代科学の状況に対して、何とか追いつき、並走するだけのスポーツルールの、この寒々しさ。

 ルールに関わるあらゆる営為に対応するに相応しい、新たなルールを設けていくことが、結局、自らを救済することになる真理を学習し切るのに、私たちはもう少し、無残な血を流さねばならないのか。

加えて、「ヘイゼルの悲劇」(1985年5月、ベルギー ・ブリュッセルで39名の死者を出した、サポーターの乱闘事件)の例を出すまでもなく、スポーツを観る側にも最低限のルールの確立が切に求められる常識が、なお未形成なのだ。

 私たちが、人間学的に存在し得ない「最高のルール」なるものと出会うまで、数多の最低のルールを通過する辛さから、とうてい解放されない現実が、そこにある。

残念ながら、一切が幻想のようにも見えるのだ。

それでもなお捨ててはならない、「より良きルール」の形成努力への覚悟。

同時に、「勝者をも救うルール設定」の高度な認知なしに何も始まらないという、その身体実感を広く共有することである。

 
(心の風景 /「最高のルール」なるものと出会うまでの、最低のルールを通過する辛さ )より抜粋http://www.freezilx2g.com/2012/06/blog-post_445.html(7月5日よりアドレスが変わりました)