空気人形('09)  是枝裕和 <社会に適応する努力を繋ぐ人間の営為を愚弄する、センチメンタル且つ、傲岸不遜な映像構成の救いがたさ>

イメージ 11  視線を同化した存在性のうちに、強い紐帯をも強化させた瞬間の炸裂
 
 
「恐怖突入」を回避して、最後はファンタジーに流れ込んだ、「誰も知らない」(2004年制作)の物語の制約を突き抜けて、本作は丸ごとファンタジー映画になってしまった。
正確に言えば、社会派的なメッセージを包含する、そこだけはどうしても捨てられないリアリズムを残す、不完全形のファンタジー映画であると言った方がいいだろう。
 
「何でもあり」という「ファンタジーの自在性」が、「映画の嘘」と強力にリンクすることで、雨垂れに触れた瞬間に、心を持った「空気人形」が自在に街を彷徨し、ビデオショップの店員にまでなってしまうのだ。

 
 
理由は、件の店員の純一に「一目惚れ」したことによるが、「異界」の住人と思しき「空気人形」を素直に受容し、彼女に様々な言語情報を与える描写では、明らかに「展開のリアリズム」と切れた行動自在性が許されるという訳だ。
 
更に、店内の金具に引っかかったことが原因で、空気人形の空気が抜けていくシーンでは、単に、一つの大きなミスを犯したに過ぎない程度の、驚きの感覚で受容する純一が、空気の栓を確かめ、そこから息を挿入し、単にプラスティックの加工品でしかない「空気人形」を、先程までそうであったような、心を持った「空気人形」に復元させていくという「描写のリアリズム」までもが簡単にスルーされてしまうのである。
「空気の栓はどこ?」

 そのとき放った、純一の言葉である。

 「お腹…」

 純一を意識する「空気人形」は、そう言うのみだった。
「見ないで…」

 そう言われても、見るに見かねた純一は、必死に空気栓から、息を吹き込んでいくのだ。
プラスティックの加工品が、見る見るうちに復元していく。

 それを遂行した純一に抱きついて、「もう少し、このまま」と吐露する「空気人形」。
「愛」の告白である。
 「空気人形」の唯一の生命線である延命ポンプを、ゴミ置き場に自分で捨てたのは、翌朝だった。
ここから「空気人形」が、浅草から日の出桟橋までの12橋を往来する、隅田川水上バスのシーンに象徴されるように、天をも突き抜ける舞い上がった感覚で躍動していく描写に流れ込んでいく。

の描写の伏線には、ビデオショップで意気投合した二人の会話が挿入されていた。

 「年を取るってどういうこと」
「老いて、だんだん死に近づくこと」

 「死?」

 「命を喪うこと」

 海を見たことがないと言う「空気人形」と、純一との海辺の会話である。
この「命を喪うこと」を身体内化した、「空気人形」の弾ける思いが、以下のカットに繋がっていく。

 「あたしね、年を取るの」

 ベンチで寂しく孤食するハイミスの受付嬢に、自分の率直な思いを吐露する「空気人形」。
 
 
 
 
(人生論的映画評論・続/空気人形('09)  是枝裕和 <社会に適応する努力を繋ぐ人間の営為を愚弄する、センチメンタル且つ、傲岸不遜な映像構成の救いがたさ> )より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2012/08/09.html