1 視線を同化した存在性のうちに、強い紐帯をも強化させた瞬間の炸裂
正確に言えば、社会派的なメッセージを包含する、そこだけはどうしても捨てられないリアリズムを残す、不完全形のファンタジー映画であると言った方がいいだろう。
理由は、件の店員の純一に「一目惚れ」したことによるが、「異界」の住人と思しき「空気人形」を素直に受容し、彼女に様々な言語情報を与える描写では、明らかに「展開のリアリズム」と切れた行動自在性が許されるという訳だ。
更に、店内の金具に引っかかったことが原因で、空気人形の空気が抜けていくシーンでは、単に、一つの大きなミスを犯したに過ぎない程度の、驚きの感覚で受容する純一が、空気の栓を確かめ、そこから息を挿入し、単にプラスティックの加工品でしかない「空気人形」を、先程までそうであったような、心を持った「空気人形」に復元させていくという「描写のリアリズム」までもが簡単にスルーされてしまうのである。
「空気の栓はどこ?」
そのとき放った、純一の言葉である。
「お腹…」
純一を意識する「空気人形」は、そう言うのみだった。
「見ないで…」
そう言われても、見るに見かねた純一は、必死に空気栓から、息を吹き込んでいくのだ。
プラスティックの加工品が、見る見るうちに復元していく。
それを遂行した純一に抱きついて、「もう少し、このまま」と吐露する「空気人形」。
「愛」の告白である。
「空気人形」の唯一の生命線である延命ポンプを、ゴミ置き場に自分で捨てたのは、翌朝だった。
この描写の伏線には、ビデオショップで意気投合した二人の会話が挿入されていた。
「年を取るってどういうこと」
「老いて、だんだん死に近づくこと」
「死?」
「命を喪うこと」
海を見たことがないと言う「空気人形」と、純一との海辺の会話である。
この「命を喪うこと」を身体内化した、「空気人形」の弾ける思いが、以下のカットに繋がっていく。
「あたしね、年を取るの」
ベンチで寂しく孤食するハイミスの受付嬢に、自分の率直な思いを吐露する「空気人形」。
(人生論的映画評論・続/空気人形('09) 是枝裕和 <社会に適応する努力を繋ぐ人間の営為を愚弄する、センチメンタル且つ、傲岸不遜な映像構成の救いがたさ> )より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2012/08/09.html