十二人の怒れる男('57)   シドニー・ルメット <「特定化された非日常の空間」として形成された【状況性】>

イメージ 1序  プロット展開の絶妙な映像構築



「17歳の少年が父親殺しで起訴された。死刑は決定的と見えたが、12人の陪審員のうち8番の男だけが無罪を主張する。彼は有罪の根拠がいかに偏見と先入観に満ちているかを説いていく。暑く狭い陪審員室での息苦しくなるような激論、怒り。互いに名も知らぬ男たちは、虚飾をはぎ取られ、ぶつかり合う。全編、陪審員室だけの密室劇にもかかわらず、一分のスキもない緊迫感をもって描き切る人間ドラマの秀作」(ワーナーホームビデオ解説より)

これは、本作のビデオのジャケットに書かれた解説文。

映画の内容も紹介されているから、以下、事件についての詳細な言及を避け、本質的なことだけを書いていく。

確かに本作は、室内劇という特定的状況の中で展開する人間ドラマの白眉で、シナリオにも全く無駄がなく、ほぼ完璧過ぎる映画であると言っていい。

少なくとも、そのような評価が定着した一級の名画だが、私にはその「完璧性」を保証したのが、6日間の法廷を費やした一つの殺人事件を評決する密室的空間内において、12人の陪審員が丁々発止と渡り合う限定的な描写の中で、緊迫感をもって事件の本質に肉薄していく<状況>を作り出した、そのプロット展開の絶妙な映像構築の超弩級の腕力にあると考えているので、その辺りの問題意識によって、本稿を進めていきたい。
 
 

1  「特定化された非日常の空間」として形成された<状況>



「早く、片付けようぜ」
 
陪審員の一人のこの言葉が、評決に参加する者たちの空気を代弁していた。

「本件は第一級殺人事件だから、有罪と決まったら、必然的に被告は電気椅子に送られる」

夏の暑さで評決を簡単に済ませるために、投票することを確認する陪審員の性急な結論を抑制する、この陪審員長の言葉が投げられても投票行為が決議されたのである。

決議の結果、11人が有罪で、一人が無罪。

「私が賛成したら、簡単に死刑が決まる・・・人の生死を5分で決めて、間違ったら?・・・あの子はひどい人生を過ごした。スラムで生まれ、9歳で母が死んだ。父親が服役中は、1年半を孤児院で過ごした。不幸な子供だった。反抗的な少年になったのも、毎日、誰かに頭を殴られたからだ。惨めな18年だった。少しは討論してやろう」

これは、被告の無罪を主張した陪審員の一人(第8番)の正攻法の弁舌。

一切は、この穏やかな口調の中にも、凛とした態度を崩さない男の異議の提示によって開かれたのである。

そこにこそ、この映画の最も重要なメッセージがあった。

そこから開かれた、評決のプロセスの中で展開される様々な人間模様、そこに作り手は映像における最も重要な価値を見出したのである。

それについての言及が、当然、本稿のテーマになる。

こういうことだ。

第8番の陪審員による、非難の余地のない弁舌が包含する意味は、決して彼が、被告である「反抗的な少年」の無罪を確信したからではなく、「惨めな18年」を送ってきた被告の裁判で印象付けられた、「電気椅子に送られる」確率の高い陪審による評決を、5分で決めてしまう事務的処理の安直さに対して、「推定無罪」の原則(疑わしきは罰せず)に拠って立つ法の原点を捨てずに、少しでも「討論してやろう」という正攻法のアピールだった。

要するに、事件の背景に横臥(おうが)するだろう問題の複雑さを考えるとき、有罪への合理的な疑いが僅かでも存在するなら、「推定無罪」の原則に拠って立つ法の原点を決して捨ててはならないということだ。

まさに、その態度こそが、陪審員室での安直な評決を防ぐ唯一の方法論である。

第8番の陪審員は、こう言いたかったのである。

この問題意識によって、彼は有罪への合理的な疑いについて、一つずつ提示していったのだ。

因みに、公判から評決のプロセスを通して、陪審員は一貫して記号で呼ばれる。

それは、固有名詞の開示を必要としない者たちによる陪審の評決が、「非日常」であることを意味している。

それ故にこそ、と言うべきか、この裁判に関わった陪審員たちの多くは、この「非日常」への主体的アクセスを望んでいなかった。

彼らの一人は、ホームのNYで行われる、名匠ケーシー・ステンゲル監督が率いて、ミッキー・マントルを擁する、黄金期を謳歌するヤンキースの試合観戦の方が気になるのである。そこにこそ、彼らの「日常性」が存在するからだ。

だから彼らは、固有名詞として生活を繋ぐ「日常性」に、一時(いっとき)でも早く帰還したかったのである。

ところが、陪審員第8番の提議によって、彼らの安直な目論見が壊れてしまった。彼らは、その直前に結審した裁判の現実に向き合うことになったのだ。

 
 
(人生論的映画評論/十二人の怒れる男('57)   シドニー・ルメット <「特定化された非日常の空間」として形成された【状況性】>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2009/12/57.html