ニュー・シネマ・パラダイス(「劇場公開版」、「完全オリジナル版」)('89)  ジュゼッペ・トルナトーレ <「回想ムービー」としての「ニュー・シネマ・パラダイス」、その「ごった煮」の締りの悪さ>

イメージ 11  編集マジックによって蘇生した「劇場公開版」



 「グレートハンティング」(1975年製作)、「ポール・ポジション」(1979年製作)「ウイニングラン」(1983年製作)という、ドキュメンタリー作品を作ったイタリア映画の監督がいる。

 彼の名は、マリオ・モッラ

 「ニュー・シネマ・パラダイス 劇場公開版」(1989年製作)の編集者でもある。

 詳細は知らないが、恐らく彼の手品によって、155 分もの長尺の映画が、見事なまでに全くジャンルの異なる124分の映画に化けてしまったのである。

 本稿の趣意は、その辺りの事情が作り出した「映画の嘘」についての言及である。

 155分もの長尺の映画の名は、言うまでもなく、「ニュー・シネマ・パラダイス オリジナル版」。
監督の名は、ジュゼッペ・トルナトーレ
 
 当時、30代前半の若き映像作家である。

 この「オリジナル版」がイタリアで公開されたとき、興行成績が不振だったため、海外で公開された際、何と124分の「劇場公開版」に化けることで、世界的に「最も有名な感動作」として巷間に流布されるに至ったという、一流のマジックを駆使したかのような内部事情は知る人ぞ知るというところだ。

 ところが、2002年になって、173分もの長尺の「ニュー・シネマ・パラダイス 完全オリジナル版」が公開されるに及んで、作品を取り巻く評価について侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論が沸騰した経緯はよく知られているだろう。

 それもそのはず、この「完全オリジナル版」の内容が、前述したように、「劇場公開版」のそれとは全くジャンルの異なる作品になっていたからである。

 はっきり書けば、前者は、「大人の恋愛映画」であるのに対して、後者は、「青少年期へのノスタルジー映画」。

 しかし今や、「名匠」と目されるジュゼッペ・トルナトーレが作り上げた「完全オリジナル版」の内容は、あまりに冗長であり、何もかも入れ込み過ぎの説明過剰な凡作であった。

 思うに、「地獄の黙示録 完全版」の場合は、「劇場公開版」の不備をより補強することで、「主題提起力」が明瞭になっただけだったが、ノスタルジアを本質とする「ニュー・シネマ・パラダイス 劇場公開版」と分れて、「完全オリジナル版」は、それこそが本来の主題であるだろう、「思うようにならない人生」のリアリズム、即ち、「青春期の大失恋」という普遍的なテーマに焦点を当てたことで判然とするように、「人生は映画で観るのとは違う。もっと、ずっと苛酷なものだ」(アルフレードの言葉)という人生論的問題を強調した作品だったと言える。

 ところが、ジュゼッペ・トルナトーレは「完全オリジナル版」の中で、故郷のシチリアを去る原因となった「大失愛」の故に、後に映画監督としての社会的成功を収めてもなお、未婚状態を延長させる壮年期の自我に巣食う、巨大な空洞感を埋められない人生を自己完結させるべく、30年ぶりのシチリア帰郷によって、「青春期に喪失した人生の忘れもの」を取りに行く「大人の恋愛映画」を構築したかったようなのだ。

 それにも関わらず、その作り手の主観とは無縁に、「完全オリジナル版」で作り出されたのは、「大人の恋愛映画」を基調音にしつつも、「青少年期へのノスタルジア」という文脈をも感受させる作品を製作してしまったのである。

 だから、155分もの「ニュー・シネマ・パラダイス オリジナル版」を観たイタリアの観客は、あまりに「ごった煮」の映像表現に当惑し、忌避したに違いない。

 当然である。
「大人の恋愛映画」と「青少年期へのノスタルジー映画」を、一本の作品の中で同時に観せられてしまったら、困惑しない道理がないだろう。

 ジュゼッペ・トルナトーレは、とうてい「名匠」とは言えない粗雑(注1)極まる映画監督だったということだ。
 
 だが、奇跡が起こった。

 マリオ・モッラによる編集による、ドキュメンタリー作家の本領発揮の仕事は一流のマジックを彷彿させるものだった。

 長尺のフィルムを切り取り、繋ぎ合わせるプロの技巧は冴え渡っていたのだ。

 それでも、元のフィルムの詰め込み的な映像の構成には、相当の苦労の跡が見られたのである。

 そんな経緯の中で成就した「劇場公開版」の立ち上げは、確かに「完全オリジナル版」に張り付いていた説明過剰な冗長さを削り取った分、スリムな「感動譚」に化けたものの、特段に「優れもの」という評価にはとても値しないだろう。
 単に普通の「コミュニティ万歳」、「映画万歳」、「純粋無垢万歳」、「純愛万歳」、「絆の関係力学万歳」という程度の情感系映画でしかないのだ。

 「劇場公開版」の編集マジックによって、確かに「主題提起」の無秩序な分散を回避し得たが、それでも私には、こんなフラットで「構成力」の貧弱な作品から、多くの人々が絶賛するような深い感銘を受けることは全くなかった。

 「1日たったら忘れる」

 これが、説明過剰な映画の宿命であると言っていい。

 ともあれ、ドキュメンタリー作家の本領発揮の超絶的技巧が媒介されようとも、所詮、遣っ付け仕事の運命的な限界ラインから逃れようがなかったのである。
 
 
(人生論的映画評論/ニュー・シネマ・パラダイス(「劇場公開版」、「完全オリジナル版」)('89)   ジュゼッペ・トルナトーレ <「回想ムービー」としての「ニュー・シネマ・パラダイス」、その「ごった煮」の締りの悪さ>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2010/02/89.html