映画史に残したい「名画」あれこれ  外国映画編(その5)



瀕死の重傷から生還した一人の男がいる。

影響力の相対的低下という、自らが置かれた厳しい状況がそうさせたのか、或いは、それ までの自分の生き方を、「愚か者」という風に相対化できるほどの年輪がそうさせたのか、それ以外に流れようがない生き方でイタリア系マフィアのボスに上り詰めた男が、重量感のある濁声(だみごえ)で、眼の前にいる三男に静かに吐露していく。

「お前だけには・・・私は生涯をファミリーに捧げてきた。愚か者にはなるまいと。大物に操られて踊る愚か者にはな。弁解はすまい。私の人生だ。だがお前は、操る側の人間になれると。上院議員とか、知事とかにな」

男の名は、ビトー・コルレオーネ。「ドン・ビトー・ゴッドファーザー」である。

眼の前にいる三男の名は、マイケル。

第二次大戦の英雄として復員して来て、家族の稼業とは無縁な若者であったが、ニュー ヨークの敵対組織から命を狙われていた父を救った縁で、ファミリーの跡目を継ぐはずの、長男のソニーの無惨な死によって空洞化した権力を、いつしか、頼りない次男のフレドに代って継承するに至ったという経緯を持つ。

「僕は、別の権力者に」
「だが、充分な時間はなかった」
「なって見せる。必ず」

短い会話の最後に、「最初に会談を持ちかけて来た者は裏切り者だ」と言い添える父は、どこまでも「ドン・ビトー・ゴッドファーザー」という相貌を崩さなかった。

この会話のシーンが挿入されたのは、今や、沸々と滾(たぎ)ってきた長尺な映像が決定的な大団円を迎える直前だった。なぜなら、この会話の直後に、「ドン・ビトー・ゴッドファーザー」の死が待機していたからである。

ゴッドファーザーの情感的な「遺言」を、マイケルが力強く受容してくれた安堵感からか、長男を喪った失意を抑えるために貯留したストレス等々、「王国」の危機の再構築への自給熱量の臨界点を超える辺りまで、その人格総体のうちに背負って きた重荷を降ろすかのように、良くも悪くも、一代の傑物の人生の終焉は、呆気ない幕切れを迎えるに至った。

ゴッドファーザーに相応しい屋敷の広い中庭で、可愛い孫と遊戯の只中に襲ってきた心臓発作の転倒によって、そのまま蘇生することなく絶命したのである。

そこに、権力関係の空洞化が生まれた。それは、国家間規模で言えば、「軍事」の空白の怖さである。紛争の発生のリスクをマキシマムに高めるからだ。イタリア系マフィアのボスの一人の死もまた、この文脈をなぞるものだった。

権力関係の空洞化の間隙を縫って、一気呵成(いっきかせい)に襲いかかって来る敵対組織への予防外交のラインを越えて、父から認知された「自在性特権」の利得も手伝って、二人の兄との知的・人格的乖離の際立つ、戦略的な頭脳の主であるマイケルの反転攻勢が開かれていったのは、先制攻撃を畳み掛けていくという方略だけが組織防衛になるという確信があったからである。

加えて、父の頑健な肉体を壊した者たちへのリベンジを経験したマイケルには、長男のソニーの命を奪った者たちと、掟破りの裏切り者を裁く必要もあった。また、マフィアとの関係において没交渉だったマイケルにとって、「最初に会談を持ちかけて来た者は裏切り者だ」と言い添えた、父の「遺言」を忠実に実践躬行(じっせんきゅうこう)することは、苛烈な人生を繋いできた父の豊富な経験知を合理的に吸収していく知恵でもあった。

現にマイケルは、葬儀中に会談を持ちかけて来た古参幹部(テッシオ)を殺害することで、「ドン・コルレオーネ」というファミリーのボスにまで上り詰めていったのである。それは、父と子の血の宿命の帰結点だったのか。
 
 
【映画史に残したい「名画」あれこれ  外国映画編(その5) 】よりhttp://zilgm.blogspot.jp/2012/10/blog-post_22.html