映画史に残したい「名画」あれこれ  邦画編(その3)



成瀬巳喜男は、自立を目指して働く女性たちを、自らのフィルムに目立つほどに多く刻んだ映画作家だった。中でも、私にとって最も印象深いのは、「あらくれ」と、本作の「女が階段を上る時」である。共に、主演は高峰秀子。言わずと知れた、成瀬作品の看板女優である。

 その高峰は成瀬作品に17作も出演していながら、「稲妻」や「流れる」のような、単にしっかりしているだけの平凡な役柄を気に入ることなく、寧ろ「あらくれ」のような、極めて個性的で自我の強い女性の役に対して、深い思い入れを持っていたことは知られていることである。(キネマ旬報2005年9月上旬号『高峰秀子独占インタビュー』より)

 ついで言えば、木下恵介監督の「喜びも悲しみも幾年月」での、献身的な聖母のような役柄に満足していなかったことなどを想起するとき、その辺りに高峰秀子という稀有な女優のプロ根性の凄みが垣間見えて、とても興味深い。

 「女が階段を上る時」における雇われマダムの役も、高峰秀子のプロ根性が随所に見られる嵌り役と言っていい。「流れる」の娘役なら、香川京子でも難無く熟(こな)したに違いないが、本作の圭子役は、高峰秀子以外の誰が演じることができたであろうか。

 圭子のキャラクターの役どころは、観る者が考えている以上に難しい表現力を必要とする。なぜなら彼女は、男を魅了する美しさと、それを安手のセールスで営業しない人間としての誇り、更に苦境の中で実家をサポートする生活力に加えて、何よりも、夜の世界で淘汰される多くの女たちの中にあって、男に対して安直に屈しない程の「女の意地」を、そのトータルな人格表現によって鮮明に映像化されねばならなかったからである。

 この作品の秀逸さは、夜の世界に生きる女たちのその生きざまのリアリティの凄さと、そのような生き方を選択せざるを得なかった女たちの、それぞれが抱えた事情の厳しさを、そこに余分な感傷を排して描き切ったという点に尽きる。
 
そこで演じられる世界は、階段を上り切ったその先の空間にある。彼女はそこで己を捨てて、「マダム」という記号を完璧に演じ切らねばならなかった。

 しかし彼女にとって、「マダム」という記号を演じることは、必ずしも、男たちの消費の対象としての「女」を晒すことではない。「女」を晒すことで生計の資を得ている女が、自らの「女」を男たちの消費の対象として確信的に晒すことに躊躇(ためら)うのは、その女が、自らの「女」を商品価値として高くセールスすることの方法論でなかったとしたなら、一体何だろうか。

 「女」を確信的に割り切ってセールスすることで手に入れる価値の大きさよりも、その女にとって、一個の「人間」としての最低限の誇りの方が、より価値のある何かであったからだ。それが、圭子という女の生き方だったのである。
 
 
 
【映画史に残したい「名画」あれこれ  邦画編(その3)】より http://zilgm.blogspot.jp/2012/10/blog-post.html