一枚のハガキ(‘10) 新藤兼人 <「声の強さ」を具現しただけの「精神の焼け野原」の風景>

イメージ 1 1  新藤兼人監督の「最終メッセージ」を想わせる、「絶対反戦」のテーマを内包させて描き切った物語 ―― その簡単な梗概



 簡単な梗概を書いておこう。

三重海軍航空隊に徴集された100名の中年兵が、内地任務として課せられていた天理教本部の掃除を完遂した折り、次の本来の任務をくじ引きで決定されるに至った。

激戦地フィリピンへの赴任に就くことになった森川定造は、生還率の高い宝塚での清掃作業に決まった6名の中に入っていた松山啓太に、故郷広島に残した愛妻・友子からの一枚のハガキへの返事が、検閲の壁によって妨げられているので、終戦後に、ハガキを持って妻に会って、読んだことを伝えて欲しいと依頼する。

太平洋戦争末期の悲劇をなぞるように、海の底に沈んで戦死した定造の依頼を思い出した啓太は、日本に帰還しても、父と妻が不倫の逃避行をした事実を知らされたことで、一切の未練を断ち切ってブラジル行きを決意するが、その前に定造の妻に会いに行くことにした。

 物語の大半は、定造の妻・友子と啓太の出会いと、人生の再出発を期して、広島の小さな村でのエピソードの悲喜劇を、新藤兼人監督の「最終メッセージ」を想わせる、「絶対反戦」のテーマを内包させて描き切っていく。



2  「激発的感情表現者」を不可避とする表現世界のピークアウト



良くも悪くも、心の中に貯留する感情を言語表現せずにはいられない、新藤兼人監督の「表現技法」の性癖がフルストッフルの状態を呈し、それでなくても暑苦しい、この作り手の情念が暴れ過ぎていて、私にはとうてい受容し切れない作品だった。

不必要な言語も何もかもスクリプトに埋め尽くしていくシナリオを、いつものように、驚くほど抑制系への配慮を欠き、ダイレクトに表現してしまう暑苦しさに遣り切れないのである。

 だからこれは、観る者を疲弊させる声高な絶叫ムービーとなった。

 以下、その例の幾つかを紹介する。

「あんた、ワシをおいて、なぜ死んだー!」

戦死した夫の「対象喪失」による懊悩を、両手で両耳を塞ぎながら叫ぶ妻。

 「白木の箱に何も入っていないのは分った。潜水艦にやられて、海の底に沈んだんだ!」

ここでは、大黒柱にしがみ付きながら絶叫するのだ。
 
「あなた、冷たかったでしょう。骨も戻らないんだ。あたしを置いていったんだ!あぁ~~あぁ~~戦争だぁ~!」

止まない絶叫が反転して、夫の兵舎仲間であった男に向かっていく

「あんたはどうして生きとるんじゃ!あんたは何で死なないんじゃ!」

男の名は松山啓太。

定造から依頼された「一枚のハガキ」に関わる伝言を届けに来ただけだが、夫・定造の妻は納得しないで難詰する一方だった。

「残った40名はまたくじを引いてもらって、30名が潜水艦に乗りました。最後の10名は・・・」

 このとき、啓太は、くじ引きで運命を決められた事情を説明したことで、定造の妻を落ち着かせるに至る。

然るに、ここで看過し難いのは、「絶対反戦」に収斂される「戦争の悪」を糾弾するエピソードの中に、映像とは表現フィールドの切れた舞台劇の技巧に丸投げすることで削り取られた、総合芸術である映像フィールドの固有の表現枠の自在性である。

それは、物語を矮小化させることで特化させた狭隘なスポットのうちに、作り手の情感系の一切を細大漏らさず減(め)り込み、そこで興奮のあまり叫喚の連射を繋ぐ描写に、「主題提起力」を炸裂させる技法の危うさであった。

即ち、限定された構成の中で勝負するリスクを負うことによって、特的に拾い上げた言語的、且つ、非言語的コミュニケーションの表現力の成否と有効性が決定づけられるので、殆ど食傷気味に暴れてしまう「初発のインパクト」が分娩した一連の画像の支配力は、観る者を疲弊させる声高な絶叫ムービーという、およそアバンギャルドの知略とも言えるシュールの風景と切れた、単に、常軌を逸したアナクロの臭気だけを撒き散らせて終焉させた危うさ ―― それが、特化させた狭隘なスポットで過剰に出し入れされてしまったのである。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/一枚のハガキ(‘10)   新藤兼人 <「声の強さ」を具現しただけの「精神の焼け野原」の風景>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2012/12/10_28.html