八月の鯨(‘87) リンゼイ・アンダーソン <「八月の鯨」という、解放系の空間に駆動させる老姉妹の心理的推進力>

イメージ 1 1  「老境する基本的スタンスが異なる老姉妹



これは、「約束された死」への境遇が実感的迫る、「老境する基本的スタンスが異なる老姉妹が、それによって生じる葛藤の心理的補完を、一方が他方に依存的に求める「対比効果」(対比によって、一方の特徴を際立たせる効果)の技法のうちに、鮮やかに浮き彫りにした一級の名画である。

姉の名は、リビー。

妹の名は、セーラ。

共に、配偶者に先立たれている高齢の身を、精神的寄り添い合って生きてきた老姉妹であるが、近年は、全盲という不遇の状態を託つリビーを、元気闊達なセーラが物理的・心理的に支えている。

そんな老姉妹が、去年もそうであったように、今年もまた、ニューイングランドの最北端に位置する白人州、メイン州の海沿いの島にある、セーラ所有の別荘にやって来た。

8月になると、島の入江に、その見事な躯体を現わすという鯨の伝説を信じ、岬からの眺望を視界に収めるために、別荘に期間限定で集う老姉妹。

それは、仲睦まじい少女時代に経験した、印象深い思い出をルーツにしていた。

しかし、老姉妹の別荘での共存の時間には、少しずつ、顕在化されてきた心理的亀裂が目立つようになってきた。

セーラに対する、リビーの依存度の高まりが、看過できないまでに膨れ上がってきたのである。

その心理的風景のうちに隠し込まれていたのは、「老境する基本的スタンスの相違であると言っていい。
 
老境する基本的スタンスが異なる高齢の姉妹の、その人生観の落差を端的に表現するシーンが、本作の中に拾われていた。

以下、それを再現する。

別荘のバルコニーに出て、白髪自慢のリビーの髪を梳(と)かす、セーラとの合わせの構図は、如何にも、仲睦まじい少女時代の延長を印象づけるが、その内実は、決して良好な会話とは言えない尖りを含んでいた。

「見苦しくないようにしてね」とリビー。
「いつも、きちんとしてるわ」とセーラ。
「あんたには、迷惑をかけているわね」
「少しも苦にならないわ」
「気が変わるわよ。誰でもそう」
「大丈夫。あなたが断らなきゃ」
「アンナがいるのにね」

アンナとはリビーの娘の名だが、その母子関係は良好ではない。

「アンナは、私たちを敬遠してるのよ」とセーラ。
「私の娘なのに!」とリビー。
「アンナは娘らしくないし。あんたも母親らしくないわ。仕方ないわね」

リビーは、娘との関係に触れられたくないのか、話題を変えた

「あなたの髪は今、どんな色なの、セーラ?」
「色褪せたわ。茶色がすっかり消えて」
「全てが消えていくわ。遅かれ早かれ」
「いつも言うわね」
「なぜ、老女は公園のベンチに座ると思う?」
「なぜ?」
「若い恋人たちの席を取るため。たとえ、11月の木枯らしが吹こうとね」
「今はまだ8月よ」
「時期など気にしないで」
「そうはいかないわ」
「そうね。人間には重くのしかかっているわ。マシューは11月に死んだの。言っておくけど、マシューの月に、私も逝くことになりそうよ。セーラ、雑用を片付けなさいよ。私、ベンチを確保しておくから」

マシューとは、リビーの亡夫の名だが、明らかに死を意識する言辞を、嫌味を込めて放つリビーの「老境」には、「約束された死」への境遇が実感的迫っているのである。

そこまで聞いて、姉から離れていくセーラ。
 
老境する基本的スタンスの相違が、そこに垣間見えていた。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/八月の鯨(‘87) リンゼイ・アンダーソン <「八月の鯨」という、解放系の空間に駆動させる老姉妹の心理的推進力>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/03/87.html