僕達急行 A列車で行こう(‘11) 森田芳光 <好き放題の伏線的なエピソードの暴れ方が壊したコメディの強度>

イメージ 11  「疑似コミュニティ」の広がりという、「オタク」の閉塞感を突き抜けて開かれたゾーン



この映画によって癒される人々がいて、商業的に成功すれば、この上なく悦ばしいことであるだろう。

しかし、映画批評という視座で捕捉した場合、この映画のコメディの強度は脆弱過ぎるというのが、私の率直な感懐である。

そのコメディの強度の脆弱さは、例えば、シリーズ化当初の頃の「男はつらいよ」や「釣りバカ日誌」のように、典型的なキャラクター依存型の爆笑コメディではなく、声高に叫ぶことも、騒ぐこともなく、まして、寅さんやハマちゃんのように暴れ出すことなど一切なく、どちらかと言えば、「草食系男子」と思しき鉄道マニアの二人の若者を描いた、ハートフルなヒューマン・コメディという物語ラインに起因するものなのか。

そうではないだろう。   

もっとも、「草食系男子」と言っても、異性とのスムーズな交流を苦手にするという狭義な意味に限定していて、それぞれ、車窓の景色を眺めながら音楽を聴くマイペースの振舞いで恋人に振られつつも、丸の内の大手不動産会社に勤務する若者(小町)と、リストラを迫る信用金庫からの融資の拒絶に遭って、経営のピンチに直面する零細な製造業の社長の一人息子(小玉)の二人は、厳しいビジネスの最前線で、彼らなりに体を張って頑張っているから、「草食系」という狭隘なイメージのうちに、彼らの人格像を押し込むことは難しい。   

「芸は身を助けるじゃないけど、趣味は持つものですね」

これは、小町の尽力で、九州の大手食品企業(「ソニックフーズ」)の新工場の誘致に成就した際に、同僚に言われた言葉。
 
既に小町と小玉は、大の鉄道マニアであるソニックフーズの筑後社長と、「豊後森機関庫」(注)で偶然の出会いをしていたことから、趣味を同じにする者同士の連帯感が形成されていて、それが商談の成功に結びついたという、ヒューマン・コメディのフラットで定番的な「奇跡譚」の見え見えの伏線が張られていた。

物語のこの流れの中で緊要なメッセージ ―― それは、この言葉に象徴されるにように、職業ではなく、個人楽しみの対象としている事柄という、字義通りの「趣味」を繋ぐ彼らの、鉄道マニアという好み世界での自己運動によって開かれていく人間関係の「発展的交叉」が、彼ら自身の近未来のイメージを抉(こ)じ開けていく力感であると言っていい。

恐らく、その辺りに、本作の基幹テーマが読み取れるだろう。

彼らの「趣味」の自己運動を推進力にして開かれた、その人間関係の「発展的交叉」が、「何でもあり」のコメディのギリギリの許容ラインの枠を突き抜けて、殆どあり得ないような偶然性の連射によるご都合主義が包括される。

私にはスルーし切れる限界を超えていたが、ここでは敢えて言及しないでおこう。

何より肝心なのは、彼らの自己運動の「産物」が、既に、「オタク」の閉塞感を突き抜けていくというメッセージが、そこに垣間見える。

「オタク」の閉塞感を突き抜けて開かれたゾーンこそ、そこで形成される「疑似コミュニティ」の広がりの可能性である。

それ故にこそ、本作の主人公の二人の若者は、「草食系男子」という偏見によって押し込められた「オタク」の閉塞感と切れて、厳しいビジネスの最前線で苦闘するシーンの挿入を不可避としたと言える。
 
「趣味」とビジネスの境界線をきっぱり峻別させる筑後社長の人格像を、一つの「あるべきモデル」として映像提示したばかりか、メカ専門の小玉による、筑後所有の豪華な鉄道模型(トップ画像)の修理などのエピソードによって、筑後の人格像に絡む、二人の若者の「解放系」のイメージ提示をも怠らなかった。

このメッセージは、充分に了解可能である。

果たして、このメッセージは、観る者に届き得たのか。

首肯し難いと言わざるを得ないのである。

二人の若者に絡む、揃って結婚願望の高い女性たちの存在感の希薄性を感受してしまうとき、彼女たちとの「情感交流」の描写があまりに表層的であり、形式的でありすぎるのだ。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/僕達急行 A列車で行こう(‘11) 森田芳光  <好き放題の伏線的なエピソードの暴れ方が壊したコメディの強度> )より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/04/11_25.html