カッコーの巣の上で('75) ミロス・フォアマン <「分りやすい人物造形」と「分りやすい物語構成」、そして、「分りやすい『権力関係』」の単純な構図>

イメージ 11  「アナーキーな革命家」を立ち上げていく「アンチのヒーロー」



良かれ悪しかれ、ニューシネマの最終地点辺りに構築された、ジャック・ニコルソン主演の本作は、そこに濃度の差こそあれ、多くのニューシネマに共通する、「破壊されし、アンチのヒーロー」というシンプルな物語の極点に位置する映像であると言っていい。

刑務所の強制労働を回避するためという、取って付けたような事情を張り付けながらも、本作の主人公は、完璧なきまでに閉鎖系の、抑制的な「体制」=「権力機関としての精神病院」の秩序の内深くに潜入し、そこで「収容」されていると信じる、一見、自己完結的な「日常性」を繋ぐ「患者」たちに、「抑制からの自己解放」の価値を執拗にアジテートし、その連射の果てに、「自己解放の向こうに垣間見える外界」の自由な空気を存分に味わわせるに至った。

それは、自己完結的な「日常性」を繋ぐ「患者」たちにとって、一種蠱惑(こわく)的な未知のゾーンの快楽であったに違いない。


しかし、自分の意志で入院したと認知させられることで、「局所最適」(個人の利益を重視)を犠牲にした、抑制的な体制下での生活の、「全体最適」(組織の利益を重視)の濃度の深化に随伴し、社会的適応能力をいよいよ累加させた「患者」たちにとって、未知のゾーンへの自己投入は、大いなる不安との心理的共存でもあった。


そんな状況下にあって、「確信犯」としての「アンチのヒーロー」である本作の主人公は、既に「アナーキーな革命家」を立ち上げていて、ポイント・オブ・ノーリターンの危うい辺りにまで突き抜けていくのだ。
 
「確信犯」としての「アンチのヒーロー」である本作の主人公の名は、マクマーフィー。

自由奔放に振舞う、そのマクマーフィーが惹起した、最初の「抑制からの自己解放」の試行は、精神病院のバスをジャックして、釣り船に乗り付け、未知のゾーンに踏み入れて興奮する「患者」たちに、自由な海の空気を呼吸させることだった。

当然、この「抑制からの自己解放」の試行には、応分のペナルティが待っていた。

ここに、重要な会話がある。

「釣り船事件」の直後の、院長を含めての会議でのこと。

「危険人物だ。病気ではないが危険だ」
「正常だと?」
「可笑しくはない」
「重い障害がないが、病気だと思う」
「病気?」
「明らかに」
「院長の意向は?」
「使命は果たした。労働農場に送還したい」
私見ですが、彼を農場に送還しても、転院させても、それは他人に問題を押し付けるに過ぎず、大変不本意です。このまま、この病院に。救えるはずです」
 
最後の発言者は、最も彼らを理解しながら、最も彼らに嫌われていると院長に名指しされた、ラチェッド婦長。

何よりこれは、本作で最も重要な会話であると言っていい。

「病気ではないが危険だ」と認定された、鑑定のための一時預かりの「アンチのヒーロー」である男を、元の刑務所に戻し、労働農場に送還するという院長の判断に対して、「この病院で救えるはずです」と言い切ったラチェッド婦長の発言の本質は、結局、「アンチのヒーロー」である男の危険性を除去する方向にしか流れない現実を意味するもの以外ではない。

そして状況は、仕事熱心なラチェッド婦長の、その相応の「使命感」が縦横に発現される事態を必然化する。

このことは、閉鎖系の「権力機関としての精神病院」という「絶対的な体制」と、その構造を破壊しようと意図する男との、「全面戦争」の様相を呈する状況を決定付けたのである。

 
 
(人生論的映画評論/カッコーの巣の上で('75) ミロス・フォアマン <「分りやすい人物造形」と「分りやすい物語構成」、そして、「分りやすい『権力関係』」の単純な構図>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2011/04/75.html