リンダリンダリンダ('05)  山下敦弘 <「青春映画の王道」を相対化し切った映像の独壇場>

イメージ 1 1  「困難な状況下の、苛酷な努力による『仲間の再生』」という文脈の暑苦しい臭気を蹴飛ばして



 観る者に、冒頭から見せるのは、校内の廊下の長回しのシーンによる、学園祭の準備風景。

 既に、この作品が、「学校生活」という退屈極まる〈日常性〉の中の、「小さな〈非日常〉」を描く映画であることを示唆していて、それを自然な会話を内包する映像によって提示していくのである。

 「この映画は残念ながらどうでもいいシーンをだらだらと撮りすぎ。最後まで何の驚きも感動もなく終わってしまった」(ユーザーレビュー)

 だから、この類のレビューを眼にすると、いかに観る者が、「驚き」や「感動」を予約する作品に馴れ過ぎていることが判然とするが、それは逆に言えば、〈日常性〉の中の、「小さな〈非日常〉」を描く映画の面白さに疎(うと)くなっていることの証明でもあるだろう。

 本作は、同じ作り手による、「松ヶ根乱射事件」(2006年製作)のように、ランドセルを背負った児童が、雪の上に倒れた女の胸や下半身を触るという、冒頭から〈非日常〉の「毒素」を振り撒く映像や、或いは、相米慎二監督の「台風クラブ」(1985年製作)のように、自然災害によって十全に機能し得なくなった、〈日常性〉の空洞を埋めるかの如き現出した〈非日常〉の「狂気」を描く映像ではない。

 とりわけ、中学校の一部生徒が下着姿になって、彼らなりの「思春期爆発」を炸裂させながら、「もしも明日が」を叫ぶように歌い出す映像の「狂気」は、殆ど常軌を逸していたと言っていい。

 「毒素」や「狂気」と地続きな、それらの〈非日常〉の作品の逸脱性と比較すると、本作で描かれたのは、前2者の作品の〈非日常〉の有りようとは明瞭に切れて、本質的に無秩序であるが故に、外的強制力によって「規範体系」を仮構した学校空間という、〈日常性〉から決して逸脱することなく、そこに生まれた限定的な解放空間である学園祭という、「小さな〈非日常〉」の主体としての「生徒」たちの自己運動の様態である。

 そして、何より重要な点は、高校軽音楽部のガールズ・バンドの学園祭での「本番」を描く本作では、着地点が約束されているので、その「約束された着地点」へのプロセスをフォローしていく物語によって構成された映像が芯となる、言ってみれば、「青春爽快篇」という「感動譚」が自ずから期待され、殆ど約束されてしまうのだ。

 ところが、本作は、確信的に「青春爽快篇」という「感動譚」という、観る者との間に形成されているはずの「暗黙のルール」を蹴飛ばしているのである。

 本作の中で、「青春爽快篇」という名の、「感動譚」のシャワーを被浴するのは困難なのだ。
と言うより、本作で拾われた幾つかのエピソードを観る限り、高校軽音楽部のガールズ・バンドを立ち上げたのは良いが、相当、その内実は粗雑であった。

 何より、女子4人組によるバンド自体が、既に、ギター担当の女子の指の負傷を契機にして、近親憎悪の関係にあると言われている、「似た者同士」の「キャットファイト」によって内部破綻していたのである。

 本番まで残り3日しかないのに、未だボーカルすらも決められない高校軽音楽部のガールズ・バンドの、粗雑極まる内実から物語が開かれていくのだ。

 大抵、このような物語では、「困難な状況下の、苛酷な努力による『仲間の再生』」という文脈で構築されていくので、観る者は、そのドラマの熱き展開を、「驚きと感動」のうちに心情的に予約してしまうだろう。

 しかし、この映画は、そうした「驚きと感動」のドラマの熱き展開をも確信的に蹴飛ばしているのだ。

 「困難な状況下の、苛酷な努力による『仲間の再生』」という文脈の暑苦しい臭気を、そこに嗅ぐことができないのである。

 要するに、「努力」して「頑張る」という、私たち日本人が最も好む心情ラインに合わせた物語構成を拒んでいるということだ。

 明らかに、アンチ・ハリウッドの異臭を存分に含んだリアリズムが、其処彼処(そこかしこ)に拾えるのだ。

 まさに本作こそ、このような時代に生きる思春期の生徒たちの息遣いや、〈生〉の有りようを精緻に捉え切っていて、それが見事に嵌った作品だった。
 
 
(人生論的映画評論/リンダリンダリンダ('05)  山下敦弘 <「青春映画の王道」を相対化し切った映像の独壇場>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2011/07/05.html