サン・ジャックへの道('05) コリーヌ・セロー <ハッピーエンドの「ヒューマンドラマ」に収斂される流れを担保にとる姑息さ>

イメージ 1 1  「旅は、人を変容させる」というロードムービーの基本命題



 「旅は、人を変容させる」

 全てとは言わないが、この「変容」という概念に収斂される極め付けの幻想が、ロードムービーの基本命題である。

 従って、ロードムービーを成功させるのは、「変容し得る」エピソードを繋いでいくしかない。

 時には、劇的な事件・事故を挿入させる定番的手法を踏襲し、最後にとっておきの「感動譚」を待機させることで、観る者が予約しているはずのカタルシスを先読みし、それを保証する。

 「心が浄化された」という印象を決定づける「ヒューマンドラマ」が、ここに自己完結するのである。



 2  長男の「行動変容」と、姉弟のリターンの速攻性
 
 
 
 さて、本作のこと。
 
この映画が鬱陶しいのは、殴り合いの喧嘩さえ辞さない兄姉弟のうちの、兄と姉が、本当に殴り合いの喧嘩をする程に険悪な仲であるのに、「文明」のバリアを少しずつ剥いでいき、否が応でも、「苦闘の旅路」の中で裸形の人格を濃密に交叉させていけば、「感動の抱擁」を手に入れることが可能であるというメッセージを、オーソドックスな批判を封じ込めるに足るコメディラインを通して堂々と描き切ったことにある。



 9人もの登場人物を配して、それぞれに相応の「人生」の交叉を入れ込んで、煩わしい時空の旅を、シュールな映像付きの「夢」のシーンの挿入を繋ぎながらも、この兄姉弟のエピソードだけは、比較的に丹念に拾い上げていた。

 

 以下、再現してみる。
キリスト教の聖地、サンティアゴ・デ・コンポステーラ(画像は、サンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂)に到達することなく、遺産をもらえる地点まで歩行を繋いで来て、兄姉弟は旅を中断して戻って行く。

 ところが、長男のピエールは途中で引き返すのだ。

 「どこへ?」と弟のクロード。
 「続ける。旅を。聖地まで。途中で止めたくない」と兄のピエール。

 ピエールには心臓病のリスクがあり、そのため薬が不可欠なのだ。

 その薬がなくても、彼は旅を繋ぐ意志を結んだのである。

 「何の途中だ?」とクロード。
 「遺産をもらいに行けよ」とピエール。
 「サン・ジャックへ?」と姉のクララ。
 「歩くと気分がいいし、サン・ジャックを見たい」とピエール。
 「大聖堂しかない。大聖堂はフランスにも」とクララ。
 「バスに乗れよ。私は止めていない」とピエール。
 「私たちより優秀だと証明したいのか?」とクロード。
 「勝手にそう思え、私は何もして来なかった。私の人生は失敗だ。誰にも愛されず、妻は酒びたりで、自殺寸前。でも、私にも生きる権利が。初めて人と交流できたんだ。なぜ、邪魔をする?皆に好かれているくせに、この上何が望みだ?」

 そう言って、ピエールは巡礼の後を追い駆けていった。

 ついで、クララが追い駆け、クロードが一緒に付いていく。
これが、本作の中で最も重要なシーンであると言っていい。




 3  ハッピーエンドの「ヒューマンドラマ」に収斂される流れを担保にとる姑息さ




 財産目当てで、「サン・ジャック」を目指したはずの兄姉弟が、待望の財産獲得権を手に入れていたにも関わらず、長男のピエールが「行動変容」を示した心理は理解できなくもない。


 彼のこの吐露は本音であるだろうし、今や、大自然に抱かれて、「苦闘の旅」を繋いで来た、その汗と苦労を全人格的に染み込ませているが故に、簡単に「ここで降りた」と締め切ってしまうのは、ある意味で、「敗北感」という厄介な感情を分娩することにもなり兼ねないだろう。
 
それは、「苦闘の旅」の内実が、彼の「行動変容」をもたらした副産物であると言える。

 同時に、ピエールの後に続いて、クララとクロードが「行動変容」を身体化した心理も、同じ文脈で読むことが可能だろう。

 既にこの時点で、険悪だった兄姉弟の関係修復の軟着点は、ほぼ完成されたと言っていい。

 
 この辺りの3人の心理の振れ方には、それなりの説得力があったが、勝負を賭けたこの描写がコメディラインの枠を逸脱することで、観る者に与える効果的、且つ、柔和な温度差となって、「心が浄化された」という印象を決定づける、「ヒューマンドラマ」の定番的保証のうちに収斂されていったのだ。
 
 
(人生論的映画評論/サン・ジャックへの道('05) コリーヌ・セロー  <ハッピーエンドの「ヒューマンドラマ」に収斂される流れを担保にとる姑息さ>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2011/06/05.html