ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~('09) 根岸吉太郎<「あなた、人非人でもいいじゃないですか。私たちは生きていさえすればいいの」―― 覚悟を括った女の、男へのアウトリーチ

イメージ 11  「欠損感覚」を埋める、包括的で献身的な「愛情補償」



男は常に欠損感を抱えている。

この欠損感の大きさによって、男は「肯定的自己像」を結べない人生を繋いで生きている。

その欠損感のルーツがどこにあるか、映像は一貫して説明しないが、大抵、このような男の人格像のケースでは、幼児期の「愛情欠損」にあると説明されるだろう。

その「愛情欠損」によって、「見捨てられ不安」を肥大させた時間を常態化させ、それが発達課題のコアなプロセスを十全にクリアし得ないまま、大きく社会規範を逸脱する現在の〈生〉を延長させるに至ったと考えられる。

「見捨てられ不安」を日常的に常態化させた事態は、健全な自我形成に大きな支障となっていったはずだ。

そのため、未成熟で脆弱な自我を分娩してしまったに違いない。

脆弱な自我は、人間が普通に生きていくに足る自給熱量を、充分に補填できずに推移してきたことで、「肯定的自己像」の獲得を成し得なかった。

男の自我にべったりと張り付く、厄介な「欠損感覚」。

通常、人間はこれを放置してくことをしない。

「生存・適応戦略」としての自我が壊れ切っていない限り、「欠損感覚」を修復すべく、そこに代償化された何かを十全に補填しないと生きていけないからである。
男の自我にべったりと張り付く「欠損感覚」を補填するために、発達課題のコアなプロセスを十全にクリアし得ない自我の、その確立過程の多くの重要な時間を消費していくのだ。

そんな人生を遣り過ごしてきた男には、もう、それ以外の時間の消費の方略が液状化してしまっているのである。

男にとって、その「欠損感覚」を埋めるに足るものこそ、ひたすら、男自身の自己中心的な欲求を満たすだけの「愛情補償」であると言っていい。

それは、殆ど包括的で、献身的な「愛情補償」である。

そして男は、その「愛情補償」を満たすに足る格好の対象人格を見い出した。

それが、本作のヒロイン(以下、「女」とする)であった。

件の男が、女を「発見」したエピソードが興味深かった。

男が女を初めて視認したのは、交番だった。

女は、弁護士を目指す「別の男」(辻)のために襟巻を万引きしたのだ。

「惚れた女の弱み」を露呈するシーンである。

「今度で何度目だ。初めてじゃないだろう」と警官。
「私、牢屋に入れられるですか?」と女。
「だから、調べているんだ」と警官。

ここで、威勢のいい女の啖呵が開かれた。

「私を牢屋に入れてはいけません。私は悪くないのです。私は22になります。22年間、私は親孝行いたしました。人様から後ろ指一つ指されたことありません。辻さんは立派な方です」
「その辻という男のために盗んだのか?」

この警官の「普通の尋問」に対して、「倍返し」のような女の啖呵が全開するのだ。

「辻さんは、寒いねと言いました。私はあの方を温めてやることもできません。せめて、襟巻でも巻いて頂こうと・・・それが、なぜ悪いことなのです。私は弱い両親を一生懸命労(いた)わってきたじゃないか。私には仕事があります。22年間、勤めて、勤めて、そしてたった一瞬、間違って手を動かしたからといって、それだけのことで22年間、いいえ、私の一生を目茶目茶にするのはあんまりです。私はまだ若いのです。これからの命です。私は今までと同じように、辛い貧乏暮らしを辛抱して生きていくのです」

左翼アジと見紛うばかりの、威勢のいい啖呵を切る女の「主張」のうちに、現代日本の雇用状況への異議申し立てのメッセージが窺われるが、そこだけは、女の啖呵の不自然さを感じない訳にはいかなかった。

このあまりに直截な表現による長広舌は、説明的過ぎるばかりか、活字だけで勝負する「文学」への依存性を強調する印象を拭えなかった。

映像によって見せられない表現技巧の瑕疵ではなかったか。

ともあれ、ここまで言い終わった後、先程から遣り取りを見ていた男が入って来て、自分が襟巻を盗ませた男であると語ったのである。

男の助け船によって、救われた女。

これが、二人の「運命的邂逅」の顛末だった。
男は女を特定的に選択し、特定的に選択された女は、以降、男の甘言に誘(いざな)われ、情感ラインを重ねていく。

しかし、自己中心的な「愛情補償」を求めるばかりか、作家生活で稼いだ全ての金を蕩尽してしまう、規格外れの男の未成熟な人格像にたっぷり触れた女は、狭隘な自己基準のパーソナルスペースに拘泥する男の、その脆弱さのうちに共存する、戦略的な色気のセールスに誘(いざな)われる弱みをも露わにして、その蠱惑(こわく)的なゾーンで手に入れる快楽を捨てられなかった。

それでも、男の逸脱的行動に対して耐性限界を感受したとき、女は男との距離を広げていく。

そのことによって、少しでも関係の相対化を図ろうとするが、狡猾な男はそんなとき、決まって女の懐の奥深くに飛び込んで来るのだ。

酒代を踏み倒した男の放蕩のツケを、バーの女給に支払って貰った夜の出来事。

「怖いんだよ・・・怖いんだよ・・・僕は」

そう言って、泣き崩れる男は、女の下肢に絡みつき、女の柔肌に包まれていくのだ。

それは、自分の愛情欲求を受け止めて欲しいと懇願し、存分に甘えて見せる態度は、包括力のある相手の女の心を掴むことで、ギリギリに〈生〉を繋ぐ自我の生存戦略である。

男の振舞いは「否定的自己像」をセールスすることで、自分のパーソナルスペースに誘(いざな)う女たちの「援助感情」を引き出すのである。
 
結局、男にはこのような生き方しか選択できないと思わせる脆弱さが露わにされるばかり。
 
 
(人生論的映画評論/ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~('09)  根岸吉太郎<「あなた、人非人でもいいじゃないですか。私たちは生きていさえすればいいの」―― 覚悟を括った女の、男へのアウトリーチ>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2011/02/09_08.html