「分りにくさ」と共存することの大切さ ―― 映画「バベル」が露わにする「芸術表現者」の短絡性の遣り切れなさ

イメージ 11  「分りにくさ」と共存することの大切さ
 
 
 
メキシコ出身のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の「バベル」(2006年製作)を観たとき、非常に遣り切れない思いに駆られた。

映画の中で強調される、独善的把握を梃子にして振りかぶった情感的視座に、その「単純化」と「感覚的処理」の傾向を弥増(いやま)す情報処理の粗放さを嫌になるほど感じてしまって、正直、憤怒に近い感情を覚えたのである。

簡単に説明し得ないので、要点のみを言及していきたい。

こういうことである。

―― モロッコで始まり、東京の超高層で閉じる物語。

 これが、「狭い世界」の犯罪経路を辿っていく、本作の物語の骨格を成していた。

現在に続くムハンマド6世を元首とし、イスラム教を国教とする立憲君主制国家・モロッコに旅行に来たアメリカ人夫婦は、関係の再構築を目途にする「大きな旅」に打って出て、そこで妻が不幸にも難に遭う。

 また、東京の超高層に住む父と娘は、関係の折り合いが上手に付けられないで、日々を遣り過ごしている。

 その原因は、聾唖者の娘の母の猟銃自殺にあるらしいが、詳細は語られない。
 
ロッコアメリカ人夫婦も東京の父娘も、その関係に見えない被膜の壁を作っていて、それが簡単に打ち破れない境界になっているようだった。

 以上のような物語設定の映画だが、「Yahoo!」の映画解説では、「それぞれの国で、異なる事件から一つの真実に導かれていく衝撃のヒューマンドラマ」という風に、如何にも本作が訴求力の高い作品のように説明されていた。

そんな本作の主題は、単に情報伝達だけでなく、「感情交叉を含むコミュニケーション」の不足によって、私たちが呼吸を繋ぐ社会の中に「内的境界」を作り出すことで、様々な不幸を生み出しているという文脈に収斂されると言っていい。

 相互に思い遣る精神の喪失こそ、現代人が喪失した最大の瑕疵であるが故に、自己基準で生きるエゴイズムの超克こそ、現代人が復元せねばならない最大のテーマであるという、気恥ずかしいほど単純な把握が、そこにべったり張り付いていた。

 そして、この映画は、その不幸が人類史的規模にまで拡大された「現代世界」の、厄介で解決困難な悲劇を分娩しているという独善的把握を梃子にして、大上段に振りかぶった情感的視座で押し出してくるのだ。

 内面描写を捨てた映像が、主題の支配力によって長尺の物語を引っ張っていくには、登場人物たちを間断なく動かし続けることで、物語の緊張感を作り出すという短絡的なアプローチが、全篇を通して垣間見える。

このような風景は、今や、この手の映画の常套手段であるから、特段に驚かされるものではない。

 然るにそれは、情感系の濃度の深い映像と睦み合うように、これが現代社会に生きる人間たちの圧倒的な喪失感であると、くぐもり切れずに感情投入し続ける作り手の、独り善がりな、とうてい受容し切れない使命感の如き理念系が、最後まで騒ぎまくって止まない印象だけを捨てていく厄介な代物であった。
 
物語の中で動かされる登場人物たちの内面深くに、殆ど這い入ることのない映像を支配する主題の大きさが、一切を処理してくれるという短絡性である。

 それが何より、私には気になるところだった。

 これほどまでに大きな問題を扱うには、登場人物たちを動かし続け、号泣させれば、何か深淵で、深刻な人類史的なテーマを掬い取ることができるなどという、過剰な情感が其処彼処(そこかしこ)で捨てられるのである。

この辺りが看過し難いのだ。

そもそも、私たち人間は「選択的注意」(数多の情報群の中から、一定の情報を特定的に取り出して 認知すること)をしながら、情報を捕捉し、認知し、解釈している。

 そのことは、「選択的注意」から洩れた厖大な情報群を捨ててきているか、それとも、拾い切れない情報群をスルーしてしまうことを意味する。

従って、私たちが、その時代状況下で摂取し得る情報量は、常に限定的である外はない。

 インターネットがこれほど普及しながら、私たちが手に入れる情報量は拡大的に増幅しつつも、それ以外の情報量も増えていくので、この情報摂取のゲームは本質的に鼬(いたち)ごっこにならざるを得ないだろう。

 しかも、自分が手に入れた情報の真実性を保証する何ものもないのだ。

 且つ、手に入れた情報とは無縁に、ジャンク情報も怒涛のように入り込んでくるので、それを処理する私たちの能力が追いつけない状況にある。
これが、情報社会に呼吸を繋ぐ私たちの、最も厄介な問題であるだろう。

 それらの情報に対して知的に解析し、処理する過程が困難になっていくので、私たちの情報処理は、「単純化」と「感覚的処理」の傾向を弥増(いやま)さざるを得ないのである。

 そのアポリアに、怪しげな陰謀論や、「これで世界を説明できる」などという独善的な解釈を押し付けてくる、「専門家」と称する者たちによる情報が侵入してくるので、今や、情報氾濫の中で、私たちの知的能力はどこかで「感覚鈍磨」していく危うさを持つだろう。

 「人は僅かしか見ず、更に僅かしか理解しない。メジャー映画だけだよ。何もかも分っていると言い張るのは。うんざりだね。20世紀の文学においても、少なくとも、20世紀後半には、全体を知っていると主張して、ものを書く作家はもはや存在していない」

これは、自作である「71フラグメンツ」(1994年制作)を解説した際の、人間洞察力に抜きん出た映像作家、ミヒャエル・ハネケ監督の言葉である。
 
この現代状況と、そこに呼吸を繋ぐ人間の「分りにくさ」こそ、一連のハネケ映像の基本骨格を成す鋭利な問題提示である、と私は考えている。

「分りにくさ」によって駆り立てられた私たちの「不安感」の背景には、過剰なまでの情報氾濫の現実がある。

それ故に、却って、確度の高い情報収集の困難さの壁に弾かれていく。

仮に、確度の高い情報を入手しても、それを消化し、内化していくことが、いよいよ困難になっていけば、その事態を回避するために、結局は、表層的な理解で分ったことにする以外にないだろう。

氾濫する情報が渦を巻き、それに攪乱されるで、「不安感」を弥増(いやま)していくのだ。

情報革命が私たちの「分りにくさ」を生み出したという、このパラドックス

だから、様々なメディアがリードする情報の共通のコードに縋ることになる。

「分りにくさ」との共存を怖れる心理が、そこにある。

然るに、「分りにくさ」と共存することは、ある意味でとても大切なことである。

人には共存できにくい「分りにくさ」というものが、常に存在するからなのだ。

 それ故にこそと言うべきか、「分りにくさ」との共存は必要である。

 「分りにくさ」と自覚的に共存する時間の中から、限りなく、自我を安心させるに相応しい観念を丁寧なプロセスを経て手に入れることで、「分りにくさ」を能動的に解消する物語を繋いで生きていく。

人生に対するその態度にこそ、私たちは拠って立たねばならない。

これは、口で言うほど簡単なことではない。

他人が入手している情報を、自分だけが所有できないという不安に耐えられず、何とかして簡便に済ます方略で、「確信」という名の幻想に縋りつかねば自我を安心させられないからだ。
 
 
 
(新・心の風景  「分りにくさ」と共存することの大切さ ―― 映画「バベル」が露わにする「芸術表現者」の短絡性の遣り切れなさ)より抜粋http://www.freezilx2g.com/2013/10/blog-post.html