月世界旅行(‘02) ジョルジュ・メリエス <「夢を見る能力」が、「夢を具現する能力」に繋がった男の真骨頂>

イメージ 11  激しい劣化から復元された「月世界旅行 カラー版」



「1902年。G・メリエス作の『月世界旅行』には、白黒とカラー版があり、世界中に広まった。1993年、紛失していたカラー版をスペインで発見。それは劣化が激しく、復元は困難を極めたが、現代の観客に、この名作を再発見してもらうべく、最新技術を駆使した緻密な作業で遂に甦った」

月世界旅行 カラー版」の冒頭のキャプションである。

パリの天文学者学会でのこと。

大昔からの憧れである月世界探検計画が実現される可能性が高くなり、天文学者学会の会員である6人の高齢の学者が到着する。

天文学者学会の会長の提案によると、地球から月に向けて弾丸型のロケットを発射するというものだが、騒々しい出席者の無駄口が飛び交う中で、この途方もない提案可決されるに至った。

会長の案内で、集合した一同ロケット製造工場を見学し、そこから月を仰ごうとしても、都市を覆う煙霧で全く見えなかった。

社会構造を変革した産業革命の影響である。

そして、弾丸型のロケット発射の日。

パリの選りすぐりの美女が見送る中で、会長以下6人の学者が乗船したロケットが発射した。
 
空で寛(くつろ)ぐ人面相のお月さまの右目に喰い刺さったのは、地球から発射された弾丸型のロケット。

無事に到着したロケットから出て来た高齢の学者たちは、今度は月面から地球を見るが、垂直に昇ってきた故郷の惑星を視認する。

「アースライズ」である。

1968年、アポロ8号から撮影された月面から昇る地球のこと。

「アースライズ」の地球の色彩がブルーカラーであったのに、映画では黄色であったという辺りが興味深い。


地球の色彩に関しては、1961年4月、バイコヌール宇宙基地から打ち上げられた、ガガーリンのボストーク1号の帰還後の記者会見での、この言葉(実際は、「地球は青い光の輪に包まれいている」、「空は暗黒で、地球は青い」、「優しく光る淡い水色」などとされている)まで待たねばならなかったということか。


因みに、地球がブルーカラーであるということは、ボストーク 以前の人工衛星からの画像で理解できていたはずだが、大気圏外から初めて地球を見たときの感動の大きさは、宇宙体験した者でないと実感し得ないのだろう。
 
しかし、このような驚異との接触は必ずしも「時代限定」ではないので、ボストーク1号より遥か60年前に製作された、本篇の「月世界旅行 カラー版」を観た人たちの好奇心を充分に満たしていたに違いない。


物語を続ける。

すっかり疲弊した高齢の学者たちは、夢の中で星座が歌うセレナーデが流れるというロマンチックな仮眠を取るものの、星座の悪戯で突然降り出した雪に起こされ、移動を余儀なくされた。

極彩色の巨大なキノコに驚いているのも束の間、奇声を発する月人たちが出て来て、学者たちは捕捉されるに至った。

月人たちに捕捉された6人の学者は、月の王様が君臨している宮殿に引き立てられていく。

そこで活躍するのは、このビッグプロジェクトのプランナー、且つ、探検隊のリーダーである、最も高齢と思しき会長だった。

月の王様を投げ飛ばすのだ。

王様を倒した混乱に乗じて、会長一行は急いでロケットに戻り、地球にまで落下していく。

海底にまで落下したロケットは、船に救助され、地球に無事の帰還を果たし、いつのまにか捕虜にした月世界人をも交え、盛大な祝事で迎えられたというおまけ付きの顛末だった。



2  魔術師のメンタリティを生涯にわたって持ち続けた「幻想の人メリエス
 
 
月世界旅行」は30もの複数のシーンがあり、15分間で、260メートルのフィルムの長さ、3か月間を要した撮影日数、そして、1万フランもの製作費など、全てが画期的だった。

その1万フランもの製作費は、セットや宇宙人製作関連の費用に消えたと、メリエス自身がインタビューで語っている。

この「月世界旅行」の製作が、1902年5月の作品であるのは、今や周知の事実。

本作の製作者(ジョルジュ・メリエス)を主役のモデルにして描かれた、著名な3D作品(「ヒューゴの不思議な発明」)が供給される、映像文化華やかなりし21世紀基準で観れば、「月世界旅行」は子供騙しにもならない極めて稚拙な映画だが、映画で物語が語られることのない1902年の時代状況下にあって、ジュール・ヴェルヌ原作の「月世界旅行」(「地球から月へ」と「月世界へ行く」)と切れて、実際に「月世界旅行」を実現させる物語のシナリオを書き、製作に関わる一切の仕事を遂行し、全篇にわたってイマジネーション溢れる、「仕掛け性」(メリエス研究家・アンドレ・ゴドロー)を本質にする映画を創ったメリエスの斬新で、ユーモラス且つ、固有の世界の輝きは、「スペクタクル」としての映画の発明において際立っていたと言えるだろう。

以下、メリエスと交流を持ち、彼を尊敬して止まなかったルネ・クレールのトリビュート。

「彼は映画の発明者と言うことはできないでしょう。それはリュミエール兄弟エジソンたちのことです。彼はそれを越える存在でした。つまり“スペクタクル”として映画を発明したのです。しかも、それは偶然だったと言えるかもしれません。最初は、自分のファンタスマゴリア(幻想)の世界を広げるための手段と考えました。ほかの人間は現実を写しだすための機械と考えたものを、彼は非現実や幻想を作りだすものとしてとらえたのです。
 
彼の伝記のひとつにはこう書かれています。『彼が野外で撮影しなかったのは、幻想の世界から離れたくなかったからである』彼はハイネのように、こう言いたかったのでしょう。『芸術においては、私は超自然主義者です』しかし、リアリズムとは一体何でしょうか?リアリズムを目指した偉大な画家はいません。洞窟の壁に線を引き、木や石に神々の姿を描いた祖先もまた、それらから自由でした。芸術は魔術です。そしてメリエスは、正真正銘の魔術師なのです」(「魔術師メリエス―映画の世紀を開いたわが祖父の生涯 マドレーヌ・マルテット=メリエス古賀太訳 フィルムアート社」序文より抜粋)

メリエスは、旧石器時代の洞窟壁画を描いた無名だが、一級のアーティストがそうだったように、リアリズムの束縛から解き放たれた自由人であり、「超自然主義者」であったが故に正真正銘の魔術師であると、ルネ・クレールは語っている。

芸術=魔術であることを、世界で初めて実証して見せたのがジョルジュ・メリエスだったということか。

また、松谷容作の「アトラクション、物語、タイム・マシン:初期映画におけるイメージ経験についての試論」(PDF文書))によると、リュミエール兄弟が発明したと言われる「シネマトグラフ」は、当時、ミュージック・ホールやカフェ・コンサールで上映される映画のことを意味していた。

「映画は、歌、アクロバット、手品といった数ある『アトラクション』の一つとして観客を楽しませていたのである。それに対して、『シネマ』は、他のアトラクションと切り離され、映画館という専門機関の中で上映される映画を意味する。映画は、他のアトラクションと異なる、新しい形の『スペクタクル』になったのである」
 
この文脈で考える限り、どれほど時代が移ろうとも、ジョルジュ・メリエスは、自らが作り上げたSFX創造の一大特化スポットとしての、モントルイユのスタジオを拠点に、「スペクタクル」から離れられない正真正銘の魔術師であったと言えるだろう。

孫娘のマドレーヌは、前掲書の中で書いている。

「私はこの二人と、5歳から15歳まで暮らしたが、時々彼らが、私より若く見えることさえあった。それは、彼らが生きるのに夢中で、何事にも驚いたり、感心したり、怒ったりしていたからであろう。幻想の人メリエスは、自分が作り出す妖精や夢の後ろに隠れていた。彼は、ほほえむだけだった

ここで言う二人とは、「幻想の人メリエス」と、「月世界旅行」にも出演したフランスの女優・ジュアンヌ・ダルシーのこと。

とりわけ、メリエスの後妻(元愛人)であるジュアンヌ・ダルシーは、マーティン・スコセッシ監督による「ヒューゴの不思議な発明2011年製作)で重要な役どころを演じていた事実が示すように、全てを失った晩年のメリエスの心の支えでもあった。

メリエスの最も良き理解者であると言っていい。

そんな二人と暮らしていたマドレーヌから見ても、自分より若く見えるほど、二人の人生が眩いまでに溌剌としていた。

だからマドレーヌは、祖父についての言い古されたイメージ、即ち、「モンパルナス駅で玩具を売っていた孤高の天才」とか、「貧困の中で死んだ天才」というような、「メロドラマ愛好者のためのお話」を厳として拒絶する。

ジョルジュ・メリエスは、メランコリックな老人ではない」

そう言い切るのだ。

恐らく、そうなのだろう。
 
ルネ・クレールも言うように、「メリエスは、正真正銘の魔術師」なのである。

その人生も、「幻想の人メリエス」=魔術師のメンタリティを、生涯にわたって持ち続けてきた者の、「地中海的な活力と陽気さ、創造力」に充ちた男の「人間的な温かみ」溢れる悔いなき軌跡そのものなのだ。
 
 

(人生論的映画評論・続/月世界旅行(‘02) ジョルジュ・メリエス   <「夢を見る能力」が、「夢を具現する能力」に繋がった男の真骨頂>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/10/02.html