太陽がいっぱい('60) ルネ・クレマン <「卑屈」という「負のエネルギー」を、マキシマムの状態までストックした自我の歪み>

イメージ 11  「越えられない距離にある者」に対する、普通の人間のスタンスを越えたとき



「越えられない距離にある者」に対する、普通の人間のスタンスは二つしかない。

一つは、相手を自分と異質の存在であると考え、相対化し切ること。

例えば、「越えられない距離にある」相手もまた、「自分とは違う、人に言えない悩みを持っているのだ」などと考える「相対思考」こそ、徒に「卑屈」に陥らないクレバーな自我防衛の方略であるだろう。

「天国と地獄」(1963年製作)の犯人は、この「相対思考」に自我をシフトできずに「地獄」への幽門を開いてしまった。

「卑屈」という「負のエネルギー」が、激昂、虚勢、更に、欠如意識や優越への過剰な情感とリンクすることで、「相対思考」を自家薬籠中(じかやくろうちゅう)の物とするレッスンが不足し過ぎていたのである。

もう一つは、相手を相対化できず、相手と何某かの形で競争し、或いは直接対決すること。

そのことによって、相手を乗り越えるとイメージできるような心理状態に自らをシフトしていくことだが、このパターンは、「青春映画」(後述)のモデルの一つであると言っていい。

ところが、以上の二つのスタンスの他に、ごく稀に、「第三の選択肢」というものが存在する。

相手の存在を、全人格的に抹殺することである。

これは、当然の如く、普通の人間のスタンスを越えているから、多分に確信的な犯罪者のケースに当て嵌まるだろう。
 
本作の主人公は、件の、ごく稀な「第三の選択肢」に身を預けることで自壊するに至った男の物語であった。

なぜなら、「完全犯罪」が成立しなかったからだ。

「完全犯罪」の困難さについては後述するが、以上の把握を踏まえて、2では本作の骨子を整理したい。



2  「青春映画」の彩りを含む「サスペンス映画」



何より、本作は「青春映画」であると同時に、「サスペンス映画」であるということだ。

と言うより、「青春映画」の彩りを含む「サスペンス映画」であると言った方がいい。

「青春映画」についての私の定義は、以下の通り。

「自らが対峙・克服すべき『敵』を仮構し、それと葛藤すること」を主題にした映画であるということ。

ここで言う「敵」とは、家族の成員、教師、周囲の大人、友人、或いは、「社会」という漠然としたものでもいいし、それを「権力」と置き換えても構わない。

要するに、「敵」を仮構し、その対象人格と葛藤することによって、手酷い挫折経験を包含するような、自我確立への曲折的な自己運動を展開するという物語が成立するということである。

その典型作品として、衰退化するテキサスの小さな町での、親友との三角関係の縺(もつ)れによる確執や、周囲の大人との葛藤を描いた、ピーター・ボグダノヴィッチ監督による、「ラスト・ショー」(1971年製作)というニューシネマの傑作を挙げてもいい。

次に、「サスペンス映画」についての私の狭義の定義は、以下の通り。

「犯罪に関わる者の、間断ない緊張感の延長感覚」が、映像構成の中で主要なファクターに成り得る映画である。
 
その典型が、成瀬巳喜男監督による「女の中にいる他人」。

「自首するんだ!それがたった一つのしなければならないことだ。救われる道だ」

こんな言葉の連射によって、三度にわたる「告白」という暴力によって、妻を必要以上に懊悩させた挙句、その妻に、以下の覚悟を括らせた「サスペンス映画」の隠れた名作が想起される。

因みに、そのときの妻の覚悟のモノローグ。

「こうなったら、表玄関から堂々と出て行こうとしているあの人を、あたしが裏口からこっそり連れ出してあげるより仕方がないわ」

結局、妻による夫殺しによってしか自己完結し得なかったのである。

抜きん出た心理描写中心の構成力によって、この映像ほど、「犯罪に関わる者の、間断ない緊張感の延長感覚」が途切れなかった作品は滅多にない。

カテゴリームービーの支配下にあるケースにおいて、まさに心理描写の絶妙な技巧こそ、「サスペンス映画」の生命線である所以である。



3  「卑屈」という「負のエネルギー」を、マキシマムの状態までストックした自我の歪み



以下、本作のケースを考えてみたい。

まず、前者(「青春映画」)については、本作において、主人公であるトム・リプリーの「友人」のフィリップが、仮構された「敵」として描かれている。

冒頭の場面で、5年ぶりに会ったリプリーを、当人を嫌う友人のフレディに紹介するときに、「あいつは役に立つ」と語っていた。

このワンシーンは、恐らく、映像全体を貫流する重要な描写である。
フィリップにとって、リプリーの存在が、良くて「悪戯相手」、悪くて「道具」以上の存在ではないからだ。(後述)

そして、そのリプリーから見れば、フィリップの存在は、階級的位置づけや、消費・蕩尽・需要能力という観点で見れば、「越えられない距離にある者」であると言っていい。

この文脈的把握によって、相互の身分の距離感覚に起因する、「優越」と「卑屈」の心理的関係の歪みが必然化したのである。

映像前半で描かれる、この両者の関係の歪みは、幾つかの場面で描かれていた。

「僕のマルジュ。愛してる。分ってるはずだろ。君を捨てて、誰があんな奴と帰るもんか」

これは、鏡に向かって、リプリーがフィリップの服を着用し、靴を履きながら独言するシーン。

マルジュとは、フィリップのフィアンセ。

「あんな奴」とは、トム・リプリー自身のこと。

彼はこの時点で、フィリップへの「同化」を果たそうとしているのだという解釈が一般的である。

しかし、この場面を目撃したフィリップから厳しく指弾されてもなお、従順な振舞いを延長せざるを得ないリプリーの自我の卑屈さが露わにされていた。
リプリーを含む3者の共存を良しとしない、この関係の歪みを視認する不快感も手伝って、フィリップを占有し得ない苛立たしさが噴き上げることで、マルジュの感情の不満が沸騰し切っていた。

この不満のエネルギーを、マルジュのように、下船するという「距離の戦略」によってクールダウンさせることができれば問題ないが、本作の主人公の場合は、先の「天国と地獄」の犯人にも似て、彼の自我に張り付く「卑屈」という厄介な感情を起動点にしているので、元より「距離の戦略」の有効性は無化されていたのだ。

前述したように、「卑屈」という「負のエネルギー」が、激昂、虚勢、更に、欠如意識や優越への過剰な情感とリンクすることで、トム・リプリーには「相対思考」への選択の余地が閉ざされてしまっていたのである。

そんな厄介な男に残された選択肢は、あまりに限定的だった。

トム・リプリーは、それ以外にチョイスし得ない、最も野蛮な「第三の選択肢」に流れていったのだ。

即ち、相手の存在を全人格的に抹殺するという例外的な選択肢であるが、この「第三の選択肢」に流れていかざるを得ない「悲哀」こそ、彼の最大の「不幸」であったと言えるだろう。

それは、「出会うべきでないタイプの男」と出会ってしまった「不幸」であるが、その「不幸」の暴力的解決を必至とするほどに、彼の内側の「卑屈」という「負のエネルギー」を、マキシマムの状態までストックした自我の歪みこそ、彼の真の「不幸」の正体なのである。

 
 
(人生論的映画評論/太陽がいっぱい('60) ルネ・クレマン <「卑屈」という「負のエネルギー」を、マキシマムの状態までストックした自我の歪み>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2010/04/60.html