ショーシャンクの空に('94) フランク・ダラボン <「希望」という名の人生の求心力、遠心力>

イメージ 11  アーリー・スモール・サクセスを遥かに超えた、ビギナーズラックという最適消費点



人並みの希望を持ち、人並みの悲哀を味わって、日々に呼吸を繋ぐごく普通の人々が、その日常性の枠内で、心地良い刺激をごく普通に求めるとき、まさにそのニーズを保証するに足る典型的な表現技巧がそこにあった。

その表現技巧が保証するのは、心地良き刺激を求める普通の人々の、ごく平均的な感性を印象深く揺さぶる「感動」であると言っていい。

この映画は、そのようなごく普通の人々が、どのようなとき、どのような場面で、どのような振れ方によって、感動のマキシマムを分娩するかということを、ほぼ完璧に計算して作り上げられた作品である。

それは、ごく普通の人々がごく普通に求める、その類の感動を簡単に安売りしないという含みの内に展開された物語の面白さが、そこに様々な伏線によって巧妙に構築された娯楽映画の要素によって、恐らく最大級のトリビュートの余情深く、観る者の心を鷲掴みにした成功作と言っていい。

人の心が閉鎖系になることで却って裸形の感情が露わになる、刑務所という非日常の極致のようなステージの設定という限定的なスポットを特化して、そこで展開される物語の枠内に、感動の安売りを意識させないような低ハードルのイメージのラインを潜入させることで、観る者に値踏みされた以上の感動を分娩する、典型的な映画の真骨頂がそこにある。

だからそれは、ビギナーズラックの決定力を持ち得た作品となった。

実は、その中身は相当に粗雑なものであったにも拘らず、アーリー・スモール・サクセス(最初の小さな成功)を遥かに超えたビギナーズラックという最適消費点によって、この映画は「最高の感動」を保証したのである。



2  「ショーシャンクでの償い」の向こうに



この作品で、作り手がアピールしている文言は唯一つ。

一に「希望」、二に「希望」、三にも四にも「希望」である。

これほど「希望」という観念を押し付けながら、観る者に押し付けがましさを感じさせない物語展開の巧妙な技巧が、本作を最後まで引っ張り切ったのである。

因みに、この映画の原題は、「The Shawshank Redemption」。

その意味は、「ショーシャンクでの償い」。

それを象徴するシーンが、後半に用意されていた。
トムの一件で懲罰房に入れられたアンディ・デュフレーン(以下、「アンディ」)が、件の房から出て来たとき、塀の中で得た親友の“調達係”、レッドに語った話がそれである。

そこには、自らの冤罪を晴らす最後のチャンスを失って、脱獄を決意させた主人公のアンディの懊悩と覚悟が滲み出ていた。

「妻は私が陰気な男で、文句ばかり言っていると嘆いていた。美人だった。愛してた。でも、表現できなくて・・・私が彼女を死に追い遣ったも同然だと思う。こんな私が彼女を死なせた・・・私は撃っていない。充分過ぎるほどの償いをした」

実はそこに、レッドが仮釈放されたときのシグナルが含意されていたが、それとは別に、このシーンは、明らかに夫婦生活を破綻に陥れた自分の倫理的な責任を、20年近くに及ぶ刑務所生活によって償い切ったと語る重要な場面であった。

「選択肢は二つだ。必死に生きるか、必死に死ぬか」

これは、そのとき放った、アンディの極め付けの名文句。

本作は、このフレーズをアピールしたいための映画でもあった。

この言葉の意味は、〈生〉を〈死〉によって相対化し切るということだ。

つまり、死ぬ覚悟なしに、この非日常の地獄からの自力突破は不可能であるということ。

それ以外ではないだろう。

トムの事件によって、再審の道を閉ざされた主人公のアンディは、遂に最後の手段に打って出た。
20年間も同じ独房に入っていることの不自然さに言及せずに物語を説明すれば、独居房の中で、ロックハンマーによって穴を掘り続けた奇跡譚の後に待機していた、嵐の晩の脱獄行の果てに得た大自由の歓喜

それは、「必死に生きるか、必死に死ぬか」の思いで、「希望」を失わない男の、一世一代の勝負が決着した瞬間であった。

 
3  「希望」という名の人生の求心力、遠心力


映像からリアリズムを削ぎ落とした、脱獄の奇跡譚のエピソードとは対照的に、本作で丁寧に描かれていたのは、50年間に及ぶ刑務所生活の中で「過剰適応」してしまった、ブルックスに纏(まつ)わる暗鬱なエピソード。

年老いたブルックスが仮釈放で塀の外に出たとき、そこに途方もなく広がっていた、けばけばしい色彩の風景は、彼の自我の記憶にインプットされていない巨大な文明の氾濫だった。

受刑者仲間にこそ愛されていた彼の悲劇の本質は、自己完結的で閉鎖系の刑務所内において、そこに適応するサイズに合わせるかの如く、彼の自我が形成されてしまったが故に、そのサイズを遥かに超える「新世界」への適応を不可能にしてしまったこと ―― それ以外ではなかった。
 
従順な身体を生み出す方法としての規律の形成を目途にする、権力の技術である刑務所の機能を指摘したのはミシェル・フーコーだが、まるでこの把握を裏付けるモデルであるかの如く、全て命令一下で動くことで、「主体的自我」を形成し得ずに、「塀の中の人生」に見合った生き方しか知らないブルックスには、「主体的自我」なしに生きられない「新世界」において、「希望」に満ちた人生を繋げずに、“ブルックス、ここに在りき”という言葉を部屋の天井に刻んで、縊首するに至った。

以下、そのときの彼の遺書。

少し長いが、全文を引用する。

「“仲間の皆へ。何もかも速いので驚いている。子供の頃、自動車を一度みたが、今では至る所に。変化の大きさに、思わず息を呑む。仮釈放委員会は住む所と仕事を与えてくれた。食料品店での手伝いだ。頑張ってはいるが、手の関節が痛む。店長に嫌われているようだ。時々、公園に来て鳥に餌をやる。あのカラス(注2)のジェイクに会いたいが、ここへは来ない。友達を作り、元気でやってるといいが。どうもうまく眠れない。落ちて行く夢を見て、飛び起きる。ここがどこだか分らなくなる時も。強盗でもやって、刑務所へ戻りたい。店長を撃てば、必ず刑務所送りだ。だが、この年で強盗はできない。疲れ果てた。不安から解放されたい。だから死ぬことにした。私などが死んでも、迷惑はかからんだろう”」

この遺書が認(したた)められた時代背景が、1960年代後半であった事実を忘れてはならないだろう。
 
因みに、アンディが「妻殺し」の冤罪で、ショーシャンク刑務所に投獄されたのが1947年だから、この時点で、既に20年近い収監生活が継続されていた。

ともあれ、この遺書を読んだときのレッドの一言は、相当にリアルな説得力を持っていた。

レッドは、仲間の囚人に、こう語ったのだ。

「あの塀を最初は憎み、そのうち慣れて、長い月日のうちに頼るようになってしまうんだ・・・終身刑は、人を廃人にする刑罰だ」

その後に、自分の正直な思いを添えたのである。

「外が怖い。ブルックスと同じだ」

そう語ったレッドも、自力突破を果たしたアンディなき後、終身刑(現在でも、米国の多数の州で終身刑制度が存在する)という地獄の刑罰を受ける身をなお延長させていたが、そんな彼に想定外のチャンスが巡ってきた。

ショーシャンク刑務所から、仮釈放の許可が下りたのである。

ブルックスと違って、小さな笑みを残して「新世界」に踏み入れて行ったレッドもまた、ブルックスと同じようなアイデンティティの危機を味わうのである。

「40年間許可なしでは、小便をできなかった。冷酷な事実だ。娑婆では生きられない。仮釈放が取り消しになれば、刑務所に戻れる。毎日が恐ろしい。ブルックスと同じ心境だ。安心できる所へ行きたい。そのとき思い出した。アンディとの約束を」
彼もまた、ショーケースに並ぶ拳銃に眼を見遣るが、「希望」を抱懐することを主唱し続けたアンディとの約束を思い起こしたことで、辛うじて、自死という最後の選択肢に流れ込む短絡的な方略を封印したのである。

そのとき、レッドの覚悟を端的に表現する言葉が捨てられた。

「俺は生きるぞ」

彼は、第二のブルックスにならなかったのである。

「希望は永遠の命だ」

このアンディの決まり文句が、レッドの内側で身体化されたのだ。

以上の言及から、映画の主題に関わる一つの重要な文脈が見えてくるだろう。

こういうことだ。

本作は、どのような状況に置かれても、「希望」を抱懐するか否かについて、三人の登場人物の人生の姿勢を分化して描いた映画であったと言える。

アンディとブルックス、そしてレッド。

「希望」という名の人生の求心力、遠心力を表現するかのように、前2者の間をダッチロールしつつ、横振れしていた男であるレッドの曲線的な人生の航跡。

そして、遂に逢着した人生の軟着点。
そこに待機していたのは、「希望」を象徴する、ブルーオーシャンの彩りが眩い異国のパラダイス。

「希望」という名の、人生の求心力が自己完結した瞬間だった。

これは本質的には、全篇を通してナレーションを繋いでいったレッドの映画だったのだ。

従って、この映画はリアリズムで解釈する類の作品ではないということである。

 
 
(人生論的映画評論/ショーシャンクの空に('94) フランク・ダラボン <「希望」という名の人生の求心力、遠心力> )より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2010/04/94.html