父と暮らせば('04)  黒木和雄 <内側の澱みが噴き上げてきて>

イメージ 1 1  「見える残酷」と、「見えない残酷」



 「見える残酷」と、「見えない残酷」というものがある。私の造語である。
 
 それは危害を加えた者と、危害を加えられた者との距離の概念である。その距離は物理的な落差であると同時に、意識の落差でもある。
 
 その言葉が内包する苛酷さを集中的に曝け出したのは、第二次世界大戦だった。

 それまで人類は、見たくないものを記憶の底に貼り付けて、その貼り付けたものに困惑し、しばしば煩悶する特有の能力によって、それでも、そこに向かわざるを得ない戦争を限りなく合理的に処理し、正当化していく作業に自ずと熱心になることで、「良心」という形で表象化された自我にそれなりの折り合いを付けてきた。

 人を傷つけ、殺(あや)めるたびに、それを正当化する思想を作り出す作業にどれほどの労力を使い果たしてきたことか。考えてみれば、私たちは、実に途方もない、厖大なる「精神的」エネルギーの蕩尽の歴史を刻んできたものである。
 
 それにも拘らず、私たちは永い間、「見える残酷」を克服できないできた。

 そこには、それによって得られる快楽や怨念の解消という心理的ファクターも内包していただろうが、それ以上に、「見える残酷」を克服する技術を手に入れられなかったという、言わば、物理学的な範疇の問題であったと言える。
 
 第二次世界大戦は、その問題を決定的に克服した歴史的な戦争であった。

 それは、交戦の相手国に対する無差別爆撃が本格的に展開された戦争であり、それこそ、「見えない残酷」の凄惨な歴史を決定的に開いた戦争だった。
 それらは、日本の中国に対する重慶爆撃であり、ドイツのスペイン共和主義者に対するゲルニカ爆撃、更に、ドイツ、日本の各都市に対するアメリカ、イギリスの無差別爆撃(ドレスデン爆撃)であり、そしてその極めつけは、広島、長崎に対する原爆投下だったというわけだ。

とりわけ原爆使用は、「見えない残酷」の、これ以上ない極北の大量殺戮以外の何ものでもなかったのである。

 思うに、このことはホロコーストを強行したドイツが、その殺戮の手段で散々苦労したばかりか、眼前の地獄を見ることから逃げようとした、虐殺の直接の加担者の「人間的」な振舞いと比較すれば、その自我に負った「傷跡」の落差という一点に於いて、蓋(けだ)し瞭然とすると言えるだろう。


 なぜなら、ホロコーストこそ「見える残酷」の極北だったからである。

「見える残酷」の苛酷さは、そこにどのような思想が被せられても、実は「残酷」の被害者のみならず、その加害者の自我もまた、少なからぬ裂傷を負う危うさを持ってしまうことにあると言えるだろう。
この極めつけの「残酷」は、今日でも、カンボジアの「キリングフィールド」やルアンダの虐殺、ダルフール紛争下でのジャンジャウィードの蛮行に繋がっていくが、「残酷」の当事者の煩悶は自我の奥深くに張り付いているから、常に自我の解体の危機に直面する内的状況を晒しかねないのである。「見える残酷」は、まさに「見える」ことによって、これ以上ない残酷の様相を呈してしまうのである。

 従って、「見えない残酷」の達成は、「残酷」の人類史にとって、その「残酷」を少しでも稀薄にさせるという決定的効果によって画期的だった。

 「見えない残酷」の高レベルの達成によって、1万2000度もの光線を放ったエノラゲイ(注1)の爆撃隊員は、その後も一貫して、自らの行為の正当性を主張する観念の内に潜り込むことが可能だったのである。

 たとえ以下の報告のように、原爆投下時の生々しい記憶を自我に鏤刻(るこく)したとしても、多くの場合、それが「見えない残酷」の絶大なる効力によって、決してホットスポット(マグマが噴き上がってくる場所)に向かって噴き上げていく暴れ方をすることなしに、ほぼ予定調和的な軟着点を確保しつつ、時間の闇の中に封印されていくに違いない。

 そうでもしなければ、自我があまりに厄介な意識を背負い込んでしまうからだ。

 仮にそんな厄介な意識を自我が背負い込んでしまったら、「贖罪」という格好な自虐の方法論もまた可能であるだろう。人間は何としてでも、行為と観念の整合性を果たして生きていく。それだけのことである。
 
二機の原爆機に搭乗していたクロード・R・イーザーリー少佐が、後に精神を病んだという報告がよく知られているが、あれだけのきのこ雲を目の当りにしたのだから、「ぞっとする光景」を見たという思いになるのは当然である。

 しかし、それだけのことだ。

 そこにはもう何も残っていないのだから、地図の中の一つの都市を消してしまった感覚と全く均しいとは言わないが、しかし、リアルタイムでその「残酷」を視界に収めない限り、イーザーリー少佐の例を特段に強調する必要もなく、多くの場合、当該国家が作った、「正義の戦争」という物語に収斂させていくことで、爆撃手たちの自我に解体の危機が忍び寄る戦慄など生まれようがないだろう。

 「見えない残酷」の真の怖さが、そこにある。「残酷」を見せた者と、それを見せられた者との落差は決定的であるのだ。切にそう思う。
 
 
 
 2  贖罪、癒し、そして再生


 本稿の評論のテーマとして選んだ、「父と暮らせば」という映画は、「見えない残酷」を存分に見せ付けられた者の自我が負った傷跡の、その贖罪と癒しと再生を描いた印象的な一篇である。

 そこには、複雑で込み入った物語などない。

 そこにあるのは、煩悶する一人の娘と、その内側深くに澱んでいる精神世界の内実だけだ。

 それだけの設定で、「見えない残酷」の震えるような恐怖の中枢近くまで迫ったのだから、いかに筆者自身が、作り手たちのセンチメンタルな状況把握に馴染めないものを感受していたとしても、その原作となった戯曲と、それを演出した者たちの力量は相当なものであったと認めざるを得ないところである。

 
 ―― ともあれ、その娘の精神世界を簡潔にフォローしていこう。
 

 その娘の名は、福吉美津江。
 
彼女は広島市内の市立図書館に勤めている。

 その図書館に一人の青年が現れた。彼の名は木下正。

 彼は原爆に関する資料を情熱的に集めていて、その協力を求めて、美津江が勤務する図書館に現れたのである。

 時は、1948年夏のことだった。
 
 いつでも若者の恋は、唐突にやってくる。

 いつしか二人の感情に、ときめきの思いが募ってくる。

 青年は美津江に、ピュアなるものの美しさを感じたのかも知れない。彼女も木下に同様の感情を抱いたのであろう。

 志で触れ合う者同士の魂は、掛け算のような膨らみ方で流れていきやすい。

 そこだけを切り取ってしまえば、二人のエピソードは数多ある純愛物語の一つでしかないだろう。
 
 しかし、この恋の進展に、手強い抑制系が侵入してきた。

 その抑制系の発信源は、娘の内側に潜んでいたものだ。

 恋をする娘は、その恋を抑制する何ものかによって縛られた。自縄自縛である。

 娘はほんの少し手を伸ばせば届くところにある至福の境地を前にして、その身体を一歩前に踏み出せないでいる。

 しかし娘の感情は、もうそこにまで踏み出してしまっていた。

 踏み出し切れない身体を、強引に引っ張り切れない感情の脆さがそこにある。娘の感情もまた、難しいラインの上を揺曳していて、それ以外の選択肢がない世界に一気に侵入できないのだ。

 そんなラインの微妙な攻防の中から、やがて二つの自我が眼に見えるような形で現出した。他者にとっては末梢的なことかも知れないが、娘の中では過剰なまでに切実だったのである。
 
 微分裂した自我の一つから、恋の進軍を押し上げるキャラクターが出現したのだ。

 やがてこのキャラクターは、娘に最も身近な肉親の姿となって、娘の周囲に絶えず取り憑くようになる。

 そのキャラクターこそ、娘の父、竹造だった。
彼は娘の「恋の応援団長」として、木下青年との関係を必死に取次ごうとするのだ。
 
 「あの日、図書館に入ってきんさった木下さんを一目見て、珍しいことに、お前の胸は一瞬ときめいた。そうじゃったな。そのときめきから、わしのこの胴体ができたんじゃ。お前はまた、貸し出し台の方に歩いて来る木下さんを見て、そっと一つ溜息を漏らした。そうじゃったな。その溜息から、わしの手足ができたんじゃ。更にお前は、あの人、ウチのおる窓口に来てくれんかな、そないにそっと願(ねご)うたろうが。その願いから、わしの心臓ができとるんじゃ」
 
 娘の美津江は、父のお節介な出現に当惑する。

 「ウチに恋をさせよう思うて、おとったんは、こないだから、この部屋をぶらーり、たらーりなさっておったんですか?」
 「うふふ」
 
 父竹造は、笑みを浮かべて頷いた。

 「・・・・恋はようせんのです。もう、ウチをいびらんでくれんさい」
 

 娘は竹造の応援を、頑なに拒むだけだった。


 映像展開の三日目。木曜日のことだ。

 「恋はようせんのです」と、恋に消極的な反応を示していた娘が、実は木下からプロポーズされていたことを、娘の告白によって知った父は、一人悦に入っていた。

 それにも拘らず、娘は恋の成就に拒否反応を示す。
 
 「そいじゃけん、いっそう、木下さんに逢(お)うちゃぁいけんのです」
 「・・・・ウチよりもっと、でっど幸せになってええ人たちが人が、ぎょうさんおってでした。そいじゃけん、そがぁな人たちを押しのけて、ウチが幸せになるわけにはいかんのです。ウチが幸せになっては、そがぁな人たちに申し訳がたたんのです・・・・」
 「あんときの広島は、死ぬるんが自然で、生き残るんが不自然なことやったんじゃ。ほじゃけん、ウチが生きてるんはおかしい・・・・ウチは生きとるんが、申し訳のうてならん!」
 
全て美津江の反応である。

 娘の反応の奥にある部分に描写が及んでくる。

 三日目からの映像の展開は、掛け合い漫才的な当初の会話の展開を逸脱してきている。

 
 映像展開の四日目。金曜日。最終日である。
 
 その朝、娘美津江は、庭に首がもげて顔が半分爛れた地蔵に見入っている。

 その爛れ方は、原爆瓦のそれと同じである。一個の石像に過ぎないが、まるで人の顔のようだ。

 いや、やはりそれは人の顔だった。娘の深層にあるものの顔が、紛う方なく、そこに映し出されているのだ。

 それは、父竹造の顔だった。

 父こそ、娘の心の根っこにある、最もネガティブな何かだったのである。
 
 内側の澱みが噴き上げてきて、遂に娘は父に告白する。
 
 「・・・・ウチはおとったんを、地獄よりもひどい火の海に、置き去りにして逃げた娘じゃ。そげな人間に、幸せになる資格はなあ!」
 
 娘の贖罪意識の基底には、「父を置き去りにして逃げた娘」という抑圧されていた感情があったのだ。

 娘にとって、ネガティブな反応を選択させる父竹造の喪われた身体が、娘の不可避な意識の中から飛び出して来て、娘と対峙し、未来に繋がる時間の内に何とか折り合いを付けようとする。

 娘もまた、自分の内なる父親像と対峙し、激しく葛藤するのである。
 
 
(人生論的映画評論/父と暮らせば('04)  黒木和雄 <内側の澱みが噴き上げてきて> )より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2008/12/04.html