観念としての「差別意識」と、身体表現としての「差別行為」を、厳として分けることの大切さ

イメージ 1例えば、知人の子弟が東大に合格したとき、その子弟を賞賛する者の儀礼的な言葉のうちには、既に大学のレベルを序列化する優劣意識が含まれている。

或いは、自分の瞳の美しさを褒められても、少し鼻が上向きであることをからかわれて怒ったとすれば、その者は自分の身体の器官に対してすらも優劣感情を抱いていることを暴露してしまうのだ。

 思うに、自我によって生きる人間は、森羅万象に優劣の価値づけを措定して生きていかない限り、自分が守るべき文化的・経済的・物理的、そして、何よりも自分の拠って立つ精神世界を維持して生きていけないのである。

 私たちは、その人格的なるもの、内面的なものにまで、実は眼に見えない商品価値性を被せて、その日常性を繋いでいるということ。

まず、これを把握しておくことである。

 もっとも、以上の意識を「差別意識」という大きな概念の枠組みで括るには、確かに問題があるだろう。
 
しかし、要は、そのような優劣意識が、偏見や狭隘な信仰、思想等と結びついて膨れ上がってしまうと、それが明らかな「差別意識」となって、身体表現に繋がる危険性を大いに孕んでしまうということだ。

 人は皆、それぞれの意識の個人差があっても、何らかの形で「差別意識」を持ってしまうことを認めざるを得ないのである。

ただそれが、過剰なほど膨張しているか、或いは、理性的に抑制されているかによって、そこに決定的な分岐点が発生するということなのである。

従って、差別とは、単に感情や意思のことではない。

 人間は、必ず内と外を分ける境界を作り、異なった価値観を排除する意思によって生きていく。

その意思が目立って過剰になるとき、それを偏見と言う。

相手の異なった価値観を理性的に認めれば、人は恐らく、他者と上手に繋がっていくことができる。
然るに、過剰な感情や価値観が行為として表現されてしまえば、それらは本質的に「差別行為」となっていく。

だから、身体化された差別は、すべて「表現行為」としての「差別行為」なのである。

 視線もまた、しばしば、最も性質(たち)の悪い差別となる。

 性質(たち)の悪い視線の多くは、秩序を平気で壊す者への反発と、その内側に潜む、偏見や蔑視という悪意の感情によって刺々(とげとげ)しくなっていく。

 こういう視線が一番怖いのだ。

私たちは迂闊(うかつ)にも、尖った視線が蝟集(いしゅう)する攻撃的な空気を、手ずから作りかねないし、或いは、そんな空気に囲繞される不幸と無縁であり続けるという保証もないのだ。

それが無言の圧力となって、誰もが簡単に抗うことができないような空気を作り出す。

 一度(ひとたび)作り出された空気は、その空気を作った人為的な環境が変わらなければ、それが特定的なリスクを再生産する空間では、永劫に続くような何ものかになっている。

 常に確信的な視線の背景には、それが帰属する集団の価値観を体現する空気があるのだ。

その空気が個人の内部に留まらないで状況を作り出し、そこで行為として表現されるとき、そこに差別が生まれるのである。
 
 
(新・心の風景  観念としての「差別意識」と、身体表現としての「差別行為」を、厳として分けることの大切さ)より抜粋http://www.freezilx2g.com/2013/12/blog-post_5.html