「サーファー青年に予約された、心的外傷の恐怖のリアリズム」 ―― 映画「地獄の黙示録」が問いかける、もう一つの根源的提示

イメージ 11  「名の知れたサーファー」という「栄誉称号」を、「殺人マシーン」という一兵士に変換し得ない者の防衛戦略



フランシス・F・コッポラ監督 の「地獄の黙示」(1979年製作)の中で、私の心の中に最も鮮烈な印象を与えた人物は、マーロン・ブランド演じるカーツ大佐でも、そのカーツ大佐の暗殺の密命を受け、カンボジアのジャングルにまで踏み入っていくウィラード大尉でもない。

無論、サーフィンを愉悦するために、ベトコンが潜入する小さな村落を、「朝のナパーム弾は最高だな」と言い放ち、「ワルキューレの騎行」をガンガン響かせながら、ナパーム弾の煌(きら)びやかな色彩で染め抜いたキルゴア中佐でもない。
 
戦場を巨大なゲームランドに仕立て上げて、その大仕掛けでスペクタクルな快楽装置の内に、殆ど抑制力を持たない自我を際限なく解き放っていたばかりか、、「反共の砦としての南ベトナムを死守する」という大義すら垣間見られない、そのキルゴア中佐に、サーフィンの醍醐味を想起させた、ランスという名の、その道では名の知れたサーファー青年である。

 徐々に、「ベトナム」という厄介な妖怪に食(は)まれていくランスにとって、この東南アジアの極限的な爛れ方を見せる戦場では、「名の知れたサーファー」という「栄誉称号」は、何の意味をも持ち得ない抹消的な記号以外ではなかった。

 ただ単に、若いだけの一兵士でしかないランスの任務は、特殊任務の指示を待つ間、安寧を保障されたホテル住まいに違和感を覚えて、自傷行為を炸裂させるほどに、ベトナムのジャングルに過剰適応し切っていた、空挺隊所属のウィラード大尉と共に、哨戒艇で河を下っていくことだった。

 ウィラード大尉の率いる4人の部下の一人 ―― それがランスだった。
 
そのランスは、キルゴア中佐のベトコン村の襲撃、ゲリラとの応戦など、河を遡上する作戦行程の途上で、様々な危難に遭遇する。

 それでも、「ベトナム」という厄介な妖怪に食(は)まれていくには、自らが「殺人マシーン」の一つという、およそ純朴な青年に相応しくない自己像が崩れていく経験が必要だった。

 勤務の合間にサーフィンを楽しむ余裕を持っていたランスだが、上流を遡行するウィラードの指揮下に入って、我が身に危険が及ぶ戦場のリアリティを手ずから経験したとき、カモフラージュのため、顔にべっとりとドーランを塗りたくった。

それは、「名の知れたサーファー」という「栄誉称号」を、別の人格像、即ち、「殺人マシーン」という一兵士への変換のための身体表現の儀式だったと言える。

銃を持つことがおよそ不釣合いな、ごく普通のアメリカ青年であるランスが、ある事件を機に、「ベトナ ム」という妖怪に呑み込まれていったのである。
 
 
(新・心の風景  「サーファー青年に予約された、心的外傷の恐怖のリアリズム」 ―― 映画「地獄の黙示録」が問いかける、もう一つの根源的提示)より抜粋http://www.freezilx2g.com/2013/12/blog-post_12.html