女相続人(‘49)  ウィリアム・ワイラー<「過剰学習」なしに突き抜けられなかった女の自立と再生の物語>

イメージ 11  心理描写に優れたウィリアム・ワイラー監督の傑作群の一つの極点



本作は、紛れもなく、一級の名画である。

常に高い水準の作品を世に出してきたウィリアム・ワイラー監督の傑作群の中で、「ローマの休日」(1953年製作)や「ベン・ハー」(1959年製作)と言った、人口に膾炙( かいしゃ)された作品よりも、私は、「大いなる西部」(1958年製作)、「噂の二人」(1961年製作)のような心理描写に優れた作品の方に愛着が深い。

そして、何と言っても、本作の「女相続人」。

これは絶品である。

心理描写に優れたウィリアム・ワイラー監督の作品の一つの極点が、この映画にはある。

ところが、これほどの名画が観られることのない理由の一つに、映画を紹介する日本の解説の、本作のヒロインの人格像に対する信じ難き偏見があると、私は考えている。

例えば、以下の通り。

「もてない余りに意地悪くなった女の心情を余す所なく語って、世の独身男性の心胆寒からしめるものがあるのだ」
「父の死に際も看取らない氷の女」

これは、「allcinema」のライターの一文。

正直、この一文を読んで呆れ返ってしまった。

この「allcinema」のライターは、ヒロインの心理の振れ方を、一体、理解できているのか。

人間の心理の振れ方を精緻にフォローし得ない映画ライターの一文に接して、この国の男たちのナイーブさに遣り切れない思いを隠せなかった。

本作の梗概は、至って簡単だから、「Yahoo!映画」の解説をベースにまとめてみる。

NYの高級住宅地に邸を構える医師オースティン・スローパーは、社交的でない一人娘キャサリンの行く末を案じていたが、彼女を家事や刺繍に閉じこもらせていたのは、彼が亡妻を理想化し、その人格イメージを娘に押しつけていたことで、この父娘関係の歪みが顕在化するのは必至だった。

そんな折、「お前は昔から取り柄のない娘だ」と父から見下されていたキャサリンの前に現われたのが、ハンサムな青年モリスだった。

モリスの出現で、胸躍らせるキャサリンの心は、財産目当てと疑う父との縁を切ってまで、駆け落ちする覚悟ができていたが、約束の夜、とうとうモリスは姿を見せなかった。

劇的なまでの「キャサリンの変貌」が出来したのは、この由々しき一件からだった。
 
以下、詳細な批評を結んでいきたい。



2  「過剰学習」なしに突き抜けられなかった女の自立と再生の物語



本作のヒロインに見る「女の怖さ」、「悪魔の笑み」、「女の執念」、「女の嫉妬」、「女の恨み」等々。

想定内のこととは言え、本作のヒロインが表現した「キャサリンの変貌」に対する、こんな類いのレビューが多かったが、私はこういう一元的な見方を排したい。

「『過剰学習』なしに突き抜けられなかった女の自立と再生の物語」

結論から言えば、これが、本作の批評に添えた私のサブタイトルである。

根拠は簡単である。

そのまま推移すれば何でもなかったのに、「この女は、まだ俺に未練がある」と傲慢にも信じ込んでいたのか、「適当に言い訳すれば結婚できる」などと考えた挙句、性懲りもなく、自分が踏み躙(にじ)った女の元に訪ねて来る男の愚昧さ。

その間、幾年もの歳月が流れているのだ。

「あの夜、姿を消したのは君を愛していたからだ。僕のために財産を棄てさせられなかった」

その男・モリスは、厚顔にも、弁明にもならないそんな言い訳を、いけしゃあしゃあと言い放って見せるのである。

ではなぜ、あの夜以降、その言い訳を手紙に書いて送らなかったのか。

児戯的な言い訳で、既に遺産相続した、「うぶで世間知らずのお嬢さん」を口八丁で籠絡(ろうらく)すれば、「いかず後家」にならずに済むという身勝手極まりない幻想を、キャサリンの人格像に張り付けていたと思える、この自惚れの強さに呆れるほどである。
 
この男・モリスが、これまでも、このジゴロ的なトラップだけで生きてきたのか否か不分明だが、少なくとも、幾年もの歳月の重量感を無視して、性懲りもなく、キャサリンの元に訪ねて来る振舞いを見る限り、「遊び金」が尽きたらジゴロ的な人生を繋いでいくという人格イメージを払拭できないのである。

思うに、「女の怖さ」、「女の執念」、「女の嫉妬」等々と見下して、キャサリン=「悪魔の如き女」のイメージのラベリングづけが絶たないが、元々、モリスが性懲りもなく訪ねて来なければ、何も起こらなかった物語の流れを忘れてはならないだろう。

綿密な計画性を抱懐したキャサリンの、モリスに対するリベンジのプランなど存在しなかったからである。

一時(いっとき)、「夢」をセールスする、結婚詐欺師としての「巧みなる身体表現能力」の欠片すらなく、見映えとソフトな語り口だけで人生を軽走してきた感の強い、モリスという軽佻浮薄な男には、自分が踏み躙(にじ)ったピュアな女の変貌の可能性について、パンフォーカスに把握する能力が不足し過ぎていた。

「キャサリンの変貌」というリバウンドを想定し得ない程度の能力で、恐らく今までもそうであったように、女に貢がせるテクニックの成功報酬だけで人生を軽走してきただろうツケが、性懲りもない再訪によって返報されるのは必至だったのだ。

「失敗は失敗のもと」

心理学者、岸田秀の言葉である。

 モリスの犯した決定的瑕疵は、ある種のタイプの女が垣間見せる、この心理を経験的に踏襲したものであると言っていい。

「失敗は失敗のもと」とは、「失敗のリピーター」の「専売特許」のこと。

失敗をするには失敗をするだけの理由があり、それをきちんと分析し、反省し、学習しなければ、かなりの確率で、人は同じことを繰り返してしまうということである。

 甘い蜜を求めて出費した大金が戻って来ない苦い体験に懲りずに、熱(ほとぼ)りが冷めたら再び同じことを繰り返す厄介な人が、私たちの周囲にいないだろうか。

或いは、常に見映えの良い異性を好きになるから、殆ど類似した失恋のパターンをなぞるのは、何も、「フーテンの寅さん」ばかりではあるまい。

恋愛の世界における これらのリピーターたちは、精神分析的に、「本当は失敗を求めていたんだ」と強引にこじつけることには些か無理があるだろう。

彼らにしたって、恋愛の成就を願って出費が嵩(かさ)み、時には、気も狂わんばかりに胸を焦がしたはずである。

恐らくそこには、深い心理学的背景が見え隠れするだろうが、彼らにはそれが見えないのだ。

見えないから、彼らの反省は通り一遍のものに終始し、自己の本質に迫れず、やがて、時の流れが痛みを中和して、又候(またぞろ)、蜜の香りに誘(いざな)われていくという負の人生循環に嵌るのである。

 対象が惹きつける快楽が、頓挫による反省的学習を常に少しずつ、しかし確実に上回るから、彼らは「失敗のリピーター」であることを止めないのである。

モリスの経験則にインプリンティングされたデータマイニング(集めたデータのルール化)には、「俺に失恋しても、優しく接すれば再びなびいてくる」という独善的な幻想が隠し込まれていたと思えるのだ。

性懲りもなく再訪したモリスの軽走感覚は、彼の貧弱な経験則の稜線上に拾える何かだったと考えられる。

然るに、キャサリンは、この陳腐なトラップに嵌らなかった。

この視座こそ、本作の肝である。

「キャサリンの変貌」

これが、優れて学習的だった。
 
「過剰学習」と言ってもいい。
と言うより、「過剰学習」なしに、彼女の自立と再生の物語が遂行し得なかった。

私は、そう考えている。

この「過剰学習」を通して、「キャサリンの変貌」の中で見逃してはならないこと ―― それは、彼女が「手痛い失恋」の経験で自己を矮小化しなかったという一点に尽きる。

キャサリンは、自分を軽侮し続けてきた父と、ピュアな異性愛を貫徹しよとする女心を踏み躙った男たちのエゴに、「手痛い失恋」という一件による「過剰学習」を通して、「私を舐めるな」という表現を身体化し得るまでに、「主張できる自己」を構築し切っていたのである。

それは、個人の尊厳を傷つける者たちへの貧弱な想像力に対する、それ以外にない身体表現だったのだ。

キャサリンは、もう、嗚咽するだけの「お嬢さん」ではなかったのである。

 
 
(人生論的映画評論・続/ 女相続人(‘49)  ウィリアム・ワイラー<「過剰学習」なしに突き抜けられなかった女の自立と再生の物語>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/12/49.html