「日本人の死生観」の底の浅さ ―― 映画「おくりびと」、その幻想の収束点

イメージ 11  アニミズム死生観という幻想



 「なげーこさ、ここさいっとつくづく思うべの。す(死)は門だなって。す(死)ぬってことは終わりってことでなくて、そこを潜(くぐ)り抜けて、次へ向かう、まさに門です。私は門番として、ここで沢山の人を見てきた。行ってらっしゃい。また、あ(会)おうのって言いながら・・・」

 完璧な山形弁で放たれた、この哀感たっぷりな言葉は、滝田洋二郎監督の「おくりびと」(2008年製作)の中の台詞である。

多くの日本人に共感を呼ぶと思われる、この台詞を放った主は、主人公の納棺師の郷里・山形県酒田市での葬儀の場で、笹野高史演じる平田正吉。

「鶴の湯」という銭湯の、50年にわたる常連客の平田正吉は、火葬場の職員でもあったから、「鶴の湯」のミストレス・ツヤ子が逝去したときのこの言葉には、近縁者の慟哭を深々と誘(いざな)うほどに感慨深いものがあったのは事実。

「生と死は繋がっている」
 
平田正吉は、そう語っているのだ。

これが、本作の「死生観」に通底すると思われるので、ここで語られる「日本人の死生観」について言及したい。

それは、アカデミー賞外国語映画賞を受賞したことで著名な、この大ヒット映画の基幹テーマと多分に重なっていると考えられるが、これが本稿のテーマとなる。

思うに、日本人は、このような言葉にからっきし弱いところがある。

情感言語やその振舞いに対して、あまりに非武装過ぎるのだ。

この言葉に共感する者も多いだろうし、ツヤ子の息子の慟哭の描写は格好の泣き所でもあった。

 しかし、この平田の言葉は、あくまでも映像世界での「死生観」であって、必ずしも、日本人に共通な「死生観」であるとは言えない。


 確かに、近年(と言っても、前世紀末)の「日本人の死生観」のデータを見る限り、「死後の世界」を信じる若者が多い。

 
「『死後の世界(あの世)があると思いますか?』という問いに対して、『あると思う』と『ないと思う』と答えた人がともに29.5%、『あると思いたい』 と答えた人が40%もあったそうです。しかも死後の世界の存在を信じるのは、年輩者には少なく、むしろ若い人に多いという傾向が見られたそうです。

 また、『死者の霊(魂)(の存在)を信じますか?』という問いに対しては、『信じる』と答えた人は54.0%、『信じない』は13.4%、『どちらとも言えない』は32.0%でした。


 『生と死の世界は断絶か、それとも連環していると思いますか?』という問いに対しては、『断絶している』が17.4%なのに対して、『どこかで連環してい る』は64.6%、『わからない』が18.0%だったそうです」(立川昭二著『日本人の死生観』1998年 筑摩書房より)


 因みに、この映画「おくりびと」の英語名は「Departures」。


 そこには「逝去」という意味もあるが、本作では「出発」、「旅立ち」という意味の方が相応しいと思われる。

要するに、「死」は「出発」であり、「旅立ち」であるという把握が本作を貫流しているのである。

 しかし、この種のアンケートの信憑性を疑う訳ではないが、若者たちが死者の霊(魂)を信じると答えるとき、「死後の世界(あの世)があると思いたい」という思いの裏返しの反応である心理を無視できないだろう。

多くの者が宇宙人の存在や、数多の都市伝説を安直に信じ、そこに夢を託す心理と変わらないのだ。

確かに、「一切衆生悉有仏性」という仏教用語に象徴されるような、一切の「もの」に霊性があると信じ、霊性と物質を明確に区分することができないアニミズム死生観が、日本人に遍(あまね)く浸透しているかのように見える。
 
しかし、私から見ると、 間としての肉体は滅びても、信仰の力によって霊体は不滅と考えるが故に、死を受け入れられる国の人々の文化、例えば、「復活」の思想を有し、死を通過点と考える絶対的な一神教の文化であるキリスト教圏の人々の場合に比べると、不文律の如き明瞭な死生観が存在するとはどうしても思えないので、どちらかと言えば、「死」を「終末点」と考える傾向が強いという印象がある。

アニミズム死生観が、日本人に遍く浸透していると見るのは幻想ではないか。

これが、日本人の「死生観」に関わる私の基本的把握である。
 
 
(新・心の風景  「日本人の死生観」の底の浅さ ―― 映画「おくりびと」、その幻想の収束点)より抜粋http://www.freezilx2g.com/2013/12/blog-post_10.html