カティンの森('07) アンジェイ・ワイダ <乾いた森の「大量虐殺のリアリズム」>

イメージ 11  オープニングシーンンで映像提示された構図の悲劇的極点



「私はどこの国にいるの?」

これは、説明的描写を限りなくカットして構築した、この群集劇の中でで拾われている多くのエピソードを貫流する、基幹テーマと言っていい最も重要な言葉である。

この言葉を放ったのは、物語終盤で挿入された、ワルシャワ蜂起の生き残りの女性であるアグニェシュカ。

彼女については後述するが、この言葉を最も象徴的に挿入された描写 -――  それがオープニングシーンであった。

ポーランドの西方から侵略したナチス・ドイツ軍に追われる人々と、ソ連軍によって東部から追われた人々が群塊と化して鉢合わせした。

場所は、ポーランド東部のブク川に架かる橋梁。

このブク川は、ポーランドを流れるヴィスワ川を遡上すると、ワルシャワの北の一地点で分岐する大河である。

ここで出てきたヴィスワ川こそが、東欧をドイツとソ連が分割支配する独ソ不可侵条約の秘密議定書第2条にある、ポーランド条項で取り決められた大体の境界線の一つであった。

1939年8月23日に締結された独ソ不可侵条約は、全世界に深刻な衝撃をもたらした国際条約であることは周知の事実。

多くの国際条約に秘密議定書が作成されるという事実が一般的な時代状況下にあって、この秘密議定書にあるポーランド条項の苛酷さこそが、そこから開かれる「ポーランドの悲劇」を決定的に鏤刻(るこく)する現実を集中的に表現するものだった。

なぜなら、この秘密議定書が作成されてから約一週間後に、第二次世界大戦の勃発を告げる、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻が開かれたからである。

1939年9月1日のことだ。

そして、この秘密議定書を、スターリン政権下のソ連が忠実に実行したその日こそ、同年の9月17日。
 
即ち、映像のオープニングシーンで描かれた、ブク川に架かる橋梁での混乱だったのである。

既に、この時点で、中国大陸への侵略戦争で膠着状態を迎えていた日本が、ソ連軍によって蹴散らされたノモンハン事件(1939年5月)が起こっていて、更に、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告(9月3日)するという時代状況の趨勢は、欧州戦争の枠組みを超え、第一次世界大戦の凄惨なイメージをも胚胎しつつあった。

オープニングシーンの構図が象徴するのは、まさに、地政学的リスクの高さに加えて、軍事的に弱体化された国家の悲哀そのもののリアルな活写であった。

ロシア革命に対する干渉戦争(ポーランドソビエト戦争)の歴史的経緯を想起するとき、ソ連による侵略の危険性を全く予測していなかったとは思えないが、当時のポーランドの軍事的弱体性を考えると、愛国精神に根差した、ポーランド陸軍における高級将校の質の高さに象徴される、ポーランド騎兵旅団の評価の高さは、常に「戦力的限定性」の瑕疵を抱えていて、たとえ優秀な人材を具備したと言っても、ドイツ空軍に比べ圧倒的に不利だったポーランド空軍や、小規模なものでしかなかったポーランド海軍の「戦力的限定性」の瑕疵と同様に、少なくとも、常に「ポーランドの歴史的仮想敵国」でありながら、当時、2000両以上の軽戦車を主力とし、鉄壁の装甲師団保有する陸軍や、爆撃機を含む戦闘機で武装した空軍を誇る、独軍との戦力の差の歴然たる事実は、ポーランド政府の欧州情勢の読みの甘さを露わにするものだった。

その結果、一月も満たないうちに、独軍ソ連軍によって、ポーランド全域が完全制圧され、降伏を潔しとしないポーランド政府は、残存兵力を伴ってルーマニアハンガリーに脱出するに至った。

この状況が本作の背景となっている事実を認知したうえで、物語の世界に這い入っていきたい。

オープニングシーンンに戻ろう。

そこで、映像提示された構図の悲劇的極点 ―― それは、人間の死をも政治利用することを止めない国家によって屠られた男たちの、その凄惨な最後を冷厳なまでに映し切った、15分間にも及ぶラストシークエンスで描かれた、銃の発砲音と機械音だけが響く「カティンの森」の風景だった。

本作は、この事件によって、地中深く埋められた男たちの生還を、ひたすら待ち続ける女たちの物語であると同時に、このラストシークエンスを撮るために、50年間もの、気が遠くなりそうな時間を待ち続けた男の内側で、瞋恚の焔(しんいのほむら)が激発的に噴き上げることを抑制しつつ、徹頭徹尾、冷厳な筆致で映し切った物語でもあった。
 
男の名はアンジェイ・ワイダ

言わずと知れた、ポーランドを代表する映像作家である。

そのアンジェイ・ワイダ監督が創りあげた映像は、群像劇を貫流する主題が物語構成を引っ張り切るという、些か類型的な作品に仕上がっていたが、本作をライフワークと考えていたに違いない作り手の、そこだけはどうしても流し切れない澱が張り付いてしまった印象を拭えない一篇だった。

そう思うのだ。



2  軍用列車に乗り込んで行く愛国者たち、或いは、「信じて待ち続ける女」の叫び




物語を追っていこう。

ブク川川で交叉した、二人の女性。

アンナと、大将夫人ルジャ。

あっという間に、ドイツの占領下に入ったクラクフから東を目指すアンナと、9月17日を期して、ポーランド領内に侵略して来たソ連軍に追われるようにして、故郷のクラクフに、車で戻っていくルジャ夫人。

アンナの目的は、ただ一つ。

対独戦で行方不明になった、夫のアンジェイを探すため。

郷里クラクフ市にあるヤギェロン大学で教授を務める、実父のヤンが自慢して止まない、最年少で槍騎兵隊大尉に昇進した将校だ。

ブク川に架かる橋梁で、「クラクフに戻りなさい」というルジャ夫人の忠告を振り切って、ひたすら東方を目指すアンナと、その娘ニカ(正式には、ヴェロニカ)。

一方、車内に、娘のエヴァや家政婦のスタシアを随伴した、ルジャ夫人の車は群衆を避けるように、一路クラクフに向かっていった。

その頃、アンジェイ大尉はソ連軍の捕虜になっていて、手帳を日記代わりにしてメモを記していた。

“1939年9月17日。ボルシェビキ遂に侵攻する。ソ連戦車に囲まれ、全面降伏。宣戦布告もなしに、我々を捕虜にした。将校だけを捕え、兵士は帰京させた。メモをとることにした。私の最期を知らせるため。二度と戻らぬかも知れぬ故。手帳が届くならば…”

これが、アンジェイ大尉の手帳の書き出しだった。

そのアンジェイ大尉に近づいて、友人のイェジ中尉が話しかけた。

「ドイツは兵士、ソ連は将校を捕える」

共に意識する、この言葉が内包する意味が判然とするのは、ソ連軍の捕虜となった彼らの一部が決定的危機を迎える辺りであったが、それでも、「二度と戻らぬかも知れぬ故」と書いたアンジェイ大尉の心中には、前線を指揮する将校としての予感が消えないのだろう。

一方、アンナは、赤十字野戦病院を経て、遂に、ソ連軍の捕虜になっていた、夫であるアンジェイと再会することが叶ったが、政府が亡命したとは言え、故国に残存する仲間を裏切ってまで脱走などできようがなかった。

まもなく、友人のイェジ中尉らと共に、ポーランド将校らの捕虜は軍用列車に乗せられ、東方へと運ばれてゆく。

アンナとアンジェイ大尉の束の間の再会は、アンナの乾かない涙のうちに消えていったが、これが永遠の別離を意味するとは思いも寄らなかったに違いない。
 
その間、ソ連軍の捕虜収容地では、赤軍兵士が、赤と白のポーランド国旗を切り裂いて、赤の旗のみを掲げる、シンボリックなカットが挿入されていた。

その頃、アンナ一家の故郷のクラクフでは、息子夫婦の帰郷を待つ義父であるヤン教授が、SS(親衛隊)幹部ミュラーの演説を聴くために、クラクフ大学に集められていた。

クラクフ大学は、常に反独宣伝の中心だった。大学は閉鎖する」

このミュラーの演説に、どよめく教授たち。

反論の余地なく、全ての教授たちは、その場で捕捉され、ドイツのザクセンハウゼン収容所に送られて行った。

(人生論的映画評論・続/カティンの森('07) アンジェイ・ワイダ <乾いた森の「大量虐殺のリアリズム」>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2012/04/07.html