ローマの休日(‘53) ウィリアム・ワイラー  <「越えられない距離」にある男女の「自由の使い方」の最高表現力>

イメージ 11  「越えられない距離」にある男女の「自由の使い方」の最高表現力



スクリューボール・コメディ」(戦前のロマンティック・コメディ)の代表作とされる、フランク・キャプラ監督の「或る夜の出来事」(1934年製作)と並んで、ラブコメディの最高到達点と評価し得る本作の梗概は、人口に膾炙(かいしゃ)されているので、本稿では、分りやすい物語の構造を読解する手立てとして、「『越えられない距離』にある男女の『自由の使い方』」というキーワードを据えて、以下、言及していきたい。

 「教育とは、自由の使い方を教えることだ」

 これは、ルイ・マル監督の「さよなら子供たち」(1987年製作)での、カトリックの寄宿学校の校長・ジャン神父の言葉である。

この極めて重量感のある言葉には、私たちが「教育」を語るときのエッセンス凝縮されていると言っていい。

 「自由の使い方」さえ間違えなければ、私たちの固有なる人生の本線を大きく逸脱する事態も出来しないだろうし、多くの場合、人生の本線の範疇のうちに、自分の能力のサイズに見合った相応の彩りを添えることが可能であろう。

 「自由の使い方」の駆使のスキルが、多様な人生の表現の様態を決定づけるのである。

 然るに、「自由の使い方」の駆使のスキルを保証する「教育」の中枢に、人生の本線の固有なる自在な展開を阻む状況に捕捉されてしまったら、果たしてどうなるのか。

 ここに、二つの異なった風景があるとする。

 一つは、「国家」の名において、言葉の厳密な意味で、「自由の使い方」が本質的に制限される「教育」を受けてきた者。

 もう一つは、「家族」の名において、「自由の使い方」が要所要所に制限される「教育」を受けてきた者。

 極端なまでに異なった風景であるが、その実在性を否定し得ないから、敢えて例を挙げた次第である。

 この風景の差異が、単なる「教育」の風景の差異に収斂されないが故に厄介なのである。

 なぜなら、前者は、「教育」を受けてきた者の「生き方」を規定するのに対して、後者は、「教育」を受けてきた者の「身の振り方」に影響を与えるに過ぎないのだ

 通常、この二つの人生がクロスすることはない。

 まして、この二つの「人生」が濃密に接触し、感情を融合させ、睦み合うことなど起こり得ない。

 この二つの「人生」が、「越えられない距離」にあるからだ。

 「越えられない距離」にある者たちの人生の振れ方とは、そういうものだろう。

だから、このあまりに著名な映画は、この二つの「人生」が重なり合った時のお伽噺を切り取ったものに過ぎない。

 しかし、上出来のお伽噺である。

私見によれば、この映画が上出来のお伽噺である最大の理由は、「越えられない距離」にある二人の「男女」の人生の、その束の間の振れ方において、「自由の使い方」を間違えなかった人物造形に決定的に成就しているからである。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/ローマの休日(‘53) ウィリアム・ワイラー  <「越えられない距離」にある男女の「自由の使い方」の最高表現力>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/01/53.html