運命じゃない人('04) 内田けんじ<類稀なるパーソナリティの給温効果を持つ、「全身誠実居士」のラブストーリーという物語の基本骨格>

イメージ 11  〈状況〉に投入された主体の感情や行為の無秩序な集合という、様々に交叉する人間学的事象の構造




本作が、かつて、そこに張り付いていたであろう幾許(いくばく)かの付加価値が脱色され、差別化特性を失うことでコモディティ化されつつも、なお文化的継続力を保持する、「映画」という格好の快楽装置を、今や、この国のインディーズ映像の代表格である PFFスカラシップによる、ニューバージョンのキラーコンテンツとしてフル稼働させて、パズルゲームを愉悦するだけの、単なる「面白いだけの映画」のカテゴリーをほんの少し突き抜けたという印象を受けるのは、リアルな会話や軽妙な遣り取りに象徴される、精緻に練られた構成力によって圧倒され、殆ど見えにくい辺りにまで後退したとは言え、それでも余命を繋ぐに足る「主題性」を拾えたからに他ならない。



本作の「主題性」とは、こういうことだろうか。
即ち、〈状況〉を作り、〈状況〉に支配される人間にとって、その〈状況〉で交叉する様々な人間学的事象の構造は、そこに投入された主体の感情や行為の無秩序な集合であり、その主体によって反転された視座は、反転された者の視座を相対化し、無化する重層的な世界を作り出してしまうということである。

複数の主体が、2000万円の贋金を巡って、それぞれの思惑で交叉した「全身世俗」の〈状況〉を、近年のムービーシーンで流行りの、それぞれの主体が関与する時系列を自在に往還させながら構築された物語が示唆するものは、言わずもがなのことだが、四次元の時空で人格的に最近接していても、思考や思惑や感情・行動傾向が、「予定調和」の絶対ラインに収斂されるという秩序を保証し得ずに、その様態の逢着点の見えにくさだけが露わになってしまうこと以外ではないのである。

その関係がどれほど親密であったとしても、相互に情報を共有することは容易でも、感情ラインまでも共有することなど不可能であるということだ。

ついでに言えば、相互に最近接する関係が、それを濃密なものに昇華させていくには、相手の思いを忖度し、心理的距離を相対的に縮めていくことで、「共有感」とか、「一体感」とかいう、得(え)も言われぬ幻想を抱懐するに至るのである。

この幻想なしに人生を繋げない脆弱さこそが、自我で生きる私たちホモサピエンスの宿命であるということなのだろう。

〈状況〉を作り、〈状況〉に支配される人間によって投入された、主体の感情や行為の無秩序な集合という人間学的事象の構造こそ、人間がズブズブのアナキズムの世界に流れ込んでいかない決定的な根拠であるに違いないのだ。

 
(人生論的映画評論/運命じゃない人('04) 内田けんじ<類稀なるパーソナリティの給温効果を持つ、「全身誠実居士」のラブストーリーという物語の基本骨格> )より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2011/07/04.html