1 「青の炎」の消炎の思いを乗せたロードレーサーの駆動の果てに
徹頭徹尾、映画的空間の中で切り取られた物語の芯にあるのは、何者にも頼らず、能力的に限定的な思考プロセスの中で、トライアンドエラー(試行錯誤)を繰り返しながら、そこで得たベストな選択を、ほぼ確信的に身体表現する少年の内的宇宙である。
「殺してやる。家族の秩序を乱す異物を排除してやる」
この尖り切った情動系は、「チェレンコフ現象」(イオン=荷電粒子の速度が、光速度より速い瞬間に放射される青い光)の放射によって生まれる衝撃波に喩(たと)えられ、原子力発電所の核分裂連鎖反応の臨界点に達するという意味で、まさに「青の炎」の炸裂だった。
この「青の炎」の情動系が、少年の内側で怜悧に、且つ、戦略的に組織されたとき、少年は、遂に男を殺害するに至る。
殺害方法は感電死。
病死にするためである。
少年の名は、秀一。
その秀一にとって、この殺害は、病死と見せかける完全犯罪でなければならなかったからだ。
少年院に入る事態、或いは、「原則逆送」されて、刑事裁判を受ける事態を免れるためではない。
秀一が、この異常な行為に振れていく最大のモチーフが、母と妹で構成されていた「幸福家族」を守り切るという、その一点にあったこと ―― これが決定的に大きかった。
秀一が「義父殺し」という「殺人事件被疑者」になってしまったとき、少年が守り切ろうとする、最も肝心な世界が崩れ去ってしまうのである。
従って秀一には、家族に迷惑をかけることなく、「幸福家族」に侵入して来たおぞましい「異物」を合理的に排除するには、完全犯罪の遂行という選択肢しか持ち得なかったのである。
完全犯罪の成功によって、自室の暗いベッドで、決して大柄ではない体を横転させながら、心の中で快哉を叫ぶ少年。
ところが、少年の完全犯罪は、目撃者の出現で根柢から崩れていく。
秀一の高校の同級生で、不登校を繰り返す友人に目撃され、恐喝されるのだ。
この恐喝に対して、秀一の出した答えは、「狂言強盗」を装って、恐喝者への完全犯罪をリピートするという行為だった。
この行為もまた、少年の怜悧な戦略によって遂行され、成就するに至った。
しかし、この行為は、義父殺しのそれと違って、憎悪の媒介のない明瞭な犯罪であることによって、本人の明瞭な自覚と切れて、秀一の自我には、朧(おぼろ)げだが、「罪」を負った「犯罪者」としての自己像を胚胎させるに至ったと言える。
(人生論的映画評論・続/青の炎(‘03) 蜷川幸雄<臨界状況を疾走する少年の内的宇宙>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/01/03.html