地獄の黙示録('79)  フランシス・F・コッポラ<「ベトナム」という妖怪に打ち砕かれて>

イメージ 11  ニューシネマの最終到達点



 アメリカは厄介な国である。

 自分の国を最も偉大で、強大な国であると、皆、素朴に信じて疑わないところがあるように見える。敢えて辛辣な言辞を弄すれば、その内実は、食いっぱぐれた無数のヨーロッパ系移民がインディアンを、しばしば、ゲームハンティングの如く殺戮したり、「涙の道」という名の苛酷な試練をチェロキー族に強要したり、或いは、「ワン・ドロップ・ルール」(一滴の血の掟)という縛りの中で、アフリカからの黒人奴隷を、家畜同然に抑圧して作り上げてきた歴史が自明であるのに、偉大なる建国神話という虚構の心地良き快感の内に、人々がぶら下っているに過ぎないのではないか。

 「マニフェスト・ディスティニー(注1)」―― 自分たちの迫害と侵略の歴史を正当化するために、この胡散臭い概念を作り出し、溢れ出る使命感の下、彼らは世界を駆け巡る。しかし、「サラダボウル」と呼ばれる国民国家の根本的矛盾や対立を融和し、解毒するためには絶対的な何かが必要だった。

 プロテスタンティズムを基調とするキリスト教が、その方法論の一つであり、それは、この国に於いて初めて、最も「生きた宗教」になったと言えるのではないか。アメリカこそ最大の宗教国家であるという多くの識者の指摘は、ある意味で的を射ていると思われるのである。

 断定的に言えば、宗教国家としてのこの国の文化風土に、「マニフェスト・ディスティニー」という厄介な幻想が繋がって、本来トラウマとなるであろうネイティブ殺しの歴史的事実を、果敢なる鬼退治の物語にすり替えてしまったのである。

 その結果、全てが認知され、ここに、「自由と希望の大地アメリカ」という心地良き観念が定着したというわけだ。そしてもっと厄介なことに、その観念の圧倒的な求心力が一人歩きしたかの如く、パラダイスとしての新世界に向かって、様々なる人々の欲望と野心が雪崩れ込んでいったのである。
 
 彼らの出自は多様でも、全てが「アメリカ」という物語に収斂されるのだ。
 
いつしかその物語は「気高く崇高で、偉大なる大国」という物語に膨らんでいくことで、「革命と戦争の世紀」と呼ばれる20世紀という激動の歴史の中枢にあって、甚大な影響力を行使し得るポジションを、殆ど選択的に確保するに至ったのである。


(注1)「明白なる運命」と約される。19世紀半ば、アメリカ合衆国の西部開拓を含む領土拡張の歴史を、神によって与えられた使命の具現であると正当化した、あまりに著名な言葉。

 
 そんな国の人々が作ったソフトパワーの中で、最も効果的で、大成功を収めた文化的装置の一つが、ハリウッド映画であると言っていい。

 ハリウッド映画で描かれる健全なラブストーリーや華麗なミュージカル、そして、鬼退治神話を定着させた嘘っぱちの西部劇の世界は、秩序と安寧を求める人々の格好の娯楽となった。そこには天使の心を持つ少女や、美貌の極致のような男と女、更に抱腹絶倒のヒューマン喜劇があり、数多の作品の中で、勧善懲悪の物語を仕切る完全無欠のスーパーヒーローが、スクリーン狭しと暴れ回るのだ。

 そのスクリーンを通じて幾度となく強調されるメッセージ ―― それは、「強き父、そして、それに寄り添うように慈母がいる」。

 「必死の逃亡者」(ウィリアム・ワイラー監督)の中で描かれた父は、命を張って家族を守り、母は必死に我が子を守るのだ。この国が最も健全であったと信じた時代に、そこにピタリと嵌る良質な映画が供給されたのである。「アメリカ」という物語は、人々の思いを丸ごと束ねる文化的仕掛けの内に世代を繋いでいったのである。
その「アメリカ」が雪崩のように、激しくうねりを上げながら壊れてしまった。少なくとも、そのように実感される崩壊現象がこの国を襲ったのである。「ベトナム」という妖怪の襲来が、その事態の歴史的背景として、どこまでも続く闇の見えないゾーンを這っていた。

 こともあろうに、ローマ帝国の如き巨大な国家が、東南アジアの小国に侵略した末にボロボロに傷つき、惨めなまでに蹴散らされてしまったという現実。その衝撃は半端ではなかった。

 東南アジアの共産化を防ぐという大義名分の根柢に横臥(おうが)していたのは、第二次世界大戦で一人勝ちした酩酊気分によって、更に勢いを増した、あの例の「マニフェスト・ディスティニー」という幻想であると言えないか。

 しかし、ベトナムからの帰還兵が母国に持ち込んだのは、ドラッグ漬けになった若者たちの身体と、そこに張り付いた絶望的なペシミズムだった。それが人々の厭戦気分を蔓延させ、国内の反戦運動に火をつけたのである。

 ケネディマクナマラ(注2)もジョンソンも、最後まで「アメリカ」という物語の呪縛から解かれることはなく、それが、果てしなき泥沼の失うものしかない地獄の戦争を、これ以上堕ちるところがないギリギリの風景の中に、あまりにもだらしなく染め抜いてしまったのだ。

私に言わせると、20世紀後半のアメリカ現代史には、「ベトナム」以前と「ベトナム」以後しかない。「ベトナム」という、あまりに危険な劇薬を存分に嚥下(えんか)した大国のペナルティが激甚だったからだ。

 それは、必殺のカウンターパンチのようでもあり、或いは、しばしばボディブロー攻撃のようでもあった。この国の社会は大きく揺らぎ、健全であったはずの文化はカオスの森に拉致されたのである。そのカオスの中から噴き上がってきた紅蓮の炎、それが流れとなって映像世界に繋がったとき、そこに「アメリカン・ニューシネマ」(和製英語で、正確に言えば、「New Hollywood」)という、毒気をふんだんに含んだ著しく刺激的な映像のムーブメントが燃え盛ったのである。

 そのムーブメントのラストランナーと目される、劇的なまでに破綻の映画、それが「地獄の黙示録」だった。ベトナムの地獄を描いたこの映画こそ、「アメリカ」という物語に貼り付いた、度し難き偽善と欺瞞を告発し続けたニューシネマの最終到達点だったのだ。



 2  「ベトナム」という名の妖怪



 「地獄の黙示録」―― この謎に満ちた映画について、今まで多くの人が熱っぽく語り、饒舌に論じ、殆んどゲームのような論争が絶え間なく続いてきた。良かれ悪しかれ、それほど多くの人を熱くさせる何かがこの映画にあるのだろう。

 そこに哲学的メタファーがふんだんに盛り込まれていると考える人は、「闇の奥」の住人である男の一言一句を解読しようと言葉を撒き散らし、映像の隅々に仕掛けられている象徴的描写を、不必要なまでのディティールへの拘り方によって、合理的に把握しようと懸命になっているのだ。

 私もこの稿を書くに当って、うんざりするほどそれらの言説、批評や感想の類に眼を通してきたが、そのウンチクの限りを尽くした深読み、斜め読みの滑稽さに、何度か吹き出してしまった。解読の快楽を手に入れたと信じる人に対して、私は何も言うべき言葉を持たない。多くの人がこの映画について様々に感じ、思い思いに語ることは決して非生産的なことではないからだ。
しかしながら、「特別完全版」をもって打ち止めとされるこの映画の枠組みを、いま改めて問い直すとき、観る者をして、出口の見えない迷路に誘(いざな)った作り手の混迷を同情的に理解しつつも、作り手が膨大な予算と時間とエネルギーをかけて紡ぎ出そうとしたものの険しさに、正直なところ目が眩む思いがする。目眩(めくるめ)く神秘的で、幻想的な赤や緑が炸裂したように踊る映像の形而上学を剥ぎ取ってみれば、そこに残ったのは、「ベトナム」という名に悉(ことごと)く収斂された現代史の妖怪だったのだ。

 より厳密に言えば、「地獄の黙示録」という厄介な映画が描き出そうとしたのは、ベトナム戦争の狂気という限定的なテーマでは把握し切れない、言わば、ある種の普遍性に届いたであろう遥かに人間学的な問題性、即ち、それらを充分に内包する宇宙=「ベトナム」であった。

 「ベトナム」のあまりの厄介さが、「地獄の黙示録」の厄介さを分娩した。それは同時に「アメリカ」の厄介さでもあったと言えるだろう。
 
 アメリカがとてつもなく厄介な国に堕ちていったのは、日本に対する二度にわたる原爆投下であると、極めて主観的に私は考えている。

 それは、大量殺戮に「距離」という概念を決定的に定着させてしまったからである。見えない敵を地上から完璧に消し去ることを可能にした大量破壊兵器の開発は、殺人者の良心の疼きを最小限に抑えることを保証したのである。しかも真珠湾奇襲に対する自衛の戦争という大義が、当時のアメリカには存在した。しかし今、これより進化した水爆を、誰も使用することができないのだ。

 因みに、ホロコーストの代名詞にされるアウシュビッツやトレブリンカ(注3)の殺戮は、その殺戮の極限的な合理的処理によって反人道的な犯罪の極北とも見られているが、しかしその殺戮には、「距離」という概念が媒介されていなかった。

 だから親衛隊員は地獄を直視することを避けて、カポ(収容所の囚人から選ばれた囚人監視役)と呼ばれる、やがて殺戮される運命にあるユダヤ人に、その異臭の漂う死体の処理を一任したのである。SSのヒムラー長官(注4)が、その地獄のさまを垣間見た際に吐き戻したというエピソードは、彼らが殺戮の「距離」に怯えていたことを端的に物語っているだろう。
従って、アウシュビッツは殺戮合理主義の一つの極みであっても、良心という名の、自我防衛まで包摂した殺戮合理主義の到達点ではなかったのだ。

 殺戮合理主義の到達点は、大量破壊兵器の開発であり、高度なハイテク技術による殺戮の機械化(RMA=「軍事における革命」)である。湾岸戦争イラク戦争によって、遂に到達した殺戮技術の完成は、まさに黙示録の世界の極限的様態であるとも言えるのだ。私たちはとうとう、「見えない残酷」の中間的到達点に届いてしまったのである。
 
 アウシュビッツの地獄と、イラク戦争の地獄のターニングポイントに位置するのが、「ベトナム」という地獄だった。

 「ベトナム」は、アウシュビッツで極まった殺戮合理主義の最終的な実験場であると同時に、その方法論の限界点を露呈した戦場でもあった。それは「見える残酷」の最終到達点だったのである。

 爾来、アメリカはソマリアの悲劇(注5)に代表されるように、「見える残酷」の前線から臆病なほど回避した結果(自由と私権が拡大的に定着すればするほど、どこの国でも殆ど例外なく、戦場での自国の死者の数の増加に対してセンシブルになるのは、命の価値が正比例的に高まるからであって、それ以外ではない)、殺戮のハイテク化によって「見えない残酷」の技術的完成に向かったのである。
 

(注3)1942年、ヴァンゼー会議で決定されたラインハルト作戦(ユダヤ人絶滅政策)によって建設されたポーランド絶滅収容所。「コルチャック先生」の殉難地としても名高い。ナチによって証拠隠滅のため破壊されので、現在は跡地しか残っていない。

(注4)ユダヤ人虐殺の直接の執行機関でもあった親衛隊(SS)の隊長で、ホロコーストをリードした。1945年に逮捕され、服毒自殺。
 
(注5)1991年、社会主義独裁政権がクーデターによって崩壊後、モハメド派とアイディード派の間で内戦勃発。国連軍が二度に渡って派遣されるが、多くの犠牲者を生み出し、紛争の調停に挫折した。国内の惨状は旱魃などもあり、かなりの餓死者を出したことで、世界中の耳目を集めた。

ベトナム」の悲劇の代償は、アメリカにとってあまりに重すぎた。それは「アメリカ」という物語と、その物語を信仰する人々が作り上げた文化を壊し、その文化にぶら下っていた多くの魂が拠って立つメンタリティを破壊したのである。

 一部良心的なメディアの報道によって、「ベトナム」という「見える残酷」の極限的様態が晒されて、ベトナムを知らない多くのアメリカ人は、PTSD(心的外傷後ストレス障害)とドラッグに囚われたベトナム帰還兵を拒否し、徹底的に差別することで姑息な自己防衛を図ったのである。

 しかし、「ベトナム」の病理はアメリカの病理として、アメリカ社会の内に拡大感染してしまった。そこには、「古き良き健全なるアメリカ」はもう跡形も残っていないかのようだった。いや寧ろ、そこに現われた「アメリカ」こそ、インディアン虐殺を正当化した本来の「アメリカ」の姿かも知れなかった。そのような「アメリカ」を露呈させた負の推進力こそ、「ベトナム」という名の妖怪だったのである。
 
 
 
(人生論的映画評論/地獄の黙示録('79)  フランシス・F・コッポラ<「ベトナム」という妖怪に打ち砕かれて>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2008/11/79f.html