カポーティ('05)  ベネット・ミラー<「恐怖との不調和」によって砕かれた、「鈍感さ」という名の戦略>

イメージ 11  野心



1959年11月15日 

グレートプレーンズの中枢に位置する、小麦畑が広がるカンザス州西部のホルカムで、その事件は起きた。

平原の一角の高台にある、富裕なクラッター家の家族4人が、惨殺死体で発見されたのである。

「間違いは正直に認めなきゃ」
「正直な人なんている?」
「僕だよ。正直に書いてる。今の僕の人生じゃ、自伝も退屈だろうけど、偽りはいけない。自分に正直なのが大事だ。全て精神分析しなくていい。正直じゃなくてもいいが、僕は南部出身の白人だ。物議を醸すような生き方はしない」

ニューヨークのサロンの場で、議論の中枢を仕切っている一人の男がいた。
ジェームス・ボールドウィン(注1)の過激なテーマの新作の構想を批判しながら、「嘘のない正直さ」を書く自分の文学論を展開していた。

男の名は、トルーマン・カポーティ

既に、奔放なヒロインを主人公にしたメロドラマとして著名な「ティファニーで朝食を」(後に、ブレイク・エドワーズ監督、オードリー・ヘプバーン主演で映画化)の上梓によって世に出て、彼は一躍文学界の寵児になっていた。

映像は一転して、NYタイムズの記事を読んで、それを切り抜く男の真剣な表情を映し出した。

カポーティである。

その表情は、サロンで饒舌振りを発揮していた男の、囲繞する空気を支配するかの如き、突き抜けた人格イメージを感じさせない真摯さを印象づけるものだった。

小説家の直感で、彼はこの事件を次回作のテーマにしようと意を決したのである。

直ちに彼は、幼馴染みで良き文学者仲間である、ネル・ハーパー・リー(注2)を随伴して、カンザス州ホルカムに向かった。

「取材助手とボディガードを兼任できるのは君だけだ。緊張する」

ネルに対しての、列車内でのカポーティの言葉である。

「あなたの新作は、第一作(注3)を凌ぐ出来でした。まさか、あんな傑作とは」

カポーティに対しての、その列車の車掌の言葉である。

「情けない。彼にお金を渡し、お世辞を言わせた」

カポーティに対しての、ネルの言葉である。

アラバマ時代の幼少期より、カポーティという人間を知る経験的直観が、男を見透かしていたのである。
このエピソードの中に、「自分の評価を上げるためには、どんなことでもする」という、この映画の主人公の性格のアウトラインが浮かび上がってきていると言っていい。

―― ここで興味深いのは、男の虚栄心の対象が、サロンに集うような知識人であって、車掌のような庶民ではないということ。

通常、誰にでも好かれたいと思う「八方美人」的な性格なら、このような恥ずかしい行為を他人に依頼するという事は考えられないからである。

既に映像序盤の7分間の中に、ネームドロッピングを駆使する男の虚栄心と、自分のポジションのステップアップを狙うその野心的性格が垣間見えるのである。

映像序盤における簡潔な描写は、本作が単なるサスペンスムービーのカテゴリーに収まらない、シビアな人間ドラマの性格を漂わせていて、観る者の興味を惹く導入であった。


(注1)20世紀を代表する米の黒人作家。「もう一つの国」という著名な作品で、同性愛や「性」、暴力、人種差別などをテーマに描いた、「魂の孤独の書」とも思われる。

(注2)人種的偏見によって逮捕・起訴された黒人青年の弁護を引き受け、絶望的な法廷闘争をするヒューマンな弁護士である父との思い出を、成長した娘が回想する自伝的文学で、後に映画化され、絶賛された。内容の一部は後述する。

(注3)オー・ヘンリー賞を受賞した、19歳のときの作品である短編集の「ミリアム」ではなく、ここでは文壇で一躍脚光を浴びた、23歳のときの初の長編作品、「遠い声 遠い部屋」のことであると思われるが、定かではない。因みに、内容は、「父親を探してアメリカ南部の小さな町を訪れたジョエルを主人公に、近づきつつある大人の世界を予感して怯えるひとりの少年の、屈折した心理と移ろいやすい感情を見事に捉えた半自伝的な処女長編」(新潮文庫版のキャッチコピー)



2  恐怖との調和 



現地に着いた二人は、早速、馴染みの編集者、ウィリアム・ショーンの許可を取って、ニューヨーカー誌の記者として、カンザス州捜査局のデューイ刑事に会いに行った。

「事件が町に与えた影響を、取材して書きたい」

記者会見の場に来ることを告げられただけで、刑事たちの反応は冷ややかだった。

その理由の一つは、このときのカポーティのパフォーマンスにあった。

自分のマフラーが超高級品であることをアピールすることで、相手の信用を得ようとする安直な戦略は、主人公の形成的な性格として既に了解済みである。

自分のステータスの高さを、「物」によって表現する心理の裏側に張り付く素性の貧しさが、ここでは身体化されていた。

あっさりとした記者会見の結果、二人は独自調査に向かうことになった。
そんな中で、教会に安置されてある一家4人の遺体を覗き見するカポーティの好奇心は、目的のためにはアンチモラルな行動をとる性格を露わにするが、まだこの辺までは、それが作家的なモラリズムの範疇にあることを窺わせるものだった。

「気が休まった。あまりに恐ろしいものに直面すると、ホッとする。普通の生活を忘れられる。僕に“普通の生活”はないが…」

これは、NYにいる、カポーティのゲイのパートナー、ジャックへの報告。

「他人に誤解されながら生きていくのは辛い。僕も子供の頃から、普通じゃないと思われている。人は僕の外見だけ見て、決めつける。話し方が変だとか…」

これは、辛い思いを引き摺る事件の第一発見者に語ったもの。

この「同情戦略」は上首尾に運んで、二人は、彼女から事件の犠牲者の日記を借りて、それを読み込んでいく。

「僕は会話の94%を記憶している」

これは、ネルに語ったカポーティの言葉。

自分でテスト済みだという記憶力で、取材の会話を掘り起こし、タイプライターに打っていく。

そんな二人は、文学好きのデューイ刑事夫人と懇意となっていった。

その主役はカポーティ

彼は刑事夫妻の前で自分の辛い過去を語ったり、サロンでのそれのようにネームドロッピング振りを被露し、懇談の中で関係を結んでいく。

そして遂に、事件現場の写真を私的に見せてもらうことに成功した。

「息子を撃ち殺す前に、なぜ、頭の下に枕を?娘には、なぜ毛布をかけた?」

これは、惨たらしい写真を平然と見ながらの、カポーティの言葉。

彼には、残酷さが心の安寧に繋がるらしいのだ。

―― だが、「恐怖との調和」を公然と語る男の物語には、未だ「本物の、直接的で、加工されていない恐怖」への免疫力の試練が検証されていないのだ。これについては、本稿のエッセンスでもあるので後述する。

ともあれ、映像は観る者に一つの布石を打ったのか。なお序盤の展開である。


 
(人生論的映画評論/カポーティ('05)  ベネット・ミラー<「恐怖との不調和」によって砕かれた、「鈍感さ」という名の戦略> )より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2009/09/05.html