「川崎殺傷事件」 ―― それを囲繞する空疎な風景への苛立たしさ

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1  「自分一人で死ね」派の激発的情動言辞の風景 ―― その情報爆轟の「疑似ロゴス」
 
 
「この事件を見てる日本中の子供を持った親御さんは、どうやって子供を守ったらいいと、ただただ恐怖なだけで防ぎようがない。いつどこで何が起こるかわからない。一人の頭のおかしい人が出てきて。死にたいなら一人で死んでくれよって、そういう人は。何で弱い子供のところに飛び込んでんだって。信じられないですね」(スポーツ報知)

落語家の立川志らく(以下、全て敬称略)が、登校中の小学生ら十数人が男に刺され、女児1人が死亡、1人が心肺停止、刺した男も死亡した「川崎殺傷事件」(2019年5月28日)の報道を受け、テレビで発言した言辞である。

その発言に対して、瞬時に賛否両論が沸き起こったが、発信元の志らくは、「普通の人間の感情だ。なぜ、悪魔の立場に立って考えないといけないんだ?」とツイートした。

ネット上でも、賛否両論ある中で、志らくのように「死にたければ、自分一人で死ね」などの意見の方が、圧倒的に多いように見受けられた。

この志らく発言を、「至極真っ当な意見」と評したのは、評論家・古谷経衡(ふるやつねひら)である。

「確かに、“死んでくれ”という強い言葉は普段であれば批判の対象になるでしょう。しかし、今回の事件には、そうした平時の良識を上回る特殊性があります。20名もの人々が事件に巻き込まれ、2名の尊い命が失われた、近年稀にみる凶悪犯罪で、殺傷の対象となったのは弱い立場にある小学生だった。その上、犯人は自死している。すでに、死亡した犯人を法で裁くことができない一方で、被害者は勿論、多くの方々が心に大きな傷を負いました。彼らの痛みに寄り添えば、“一人で死んでくれ”と考えるのは、当然の感覚で、全く批判には当たりません」

「当然の感覚で、全く批判には当たりません」という、最後のこの言辞が、古谷の「疑似ロゴス」の最終防波堤になっていることは容易に読み取れるが、この「疑似ロゴス」こそ、「自分一人で死ね」派の収斂点と化している。

当然ながら、私も含めて、遺族に深い哀悼の意を表するのは自然のこと。

私自身、児童8名が殺害され、15人が重軽傷を負った「附属池田小事件」(2001年6月)、7人が死亡し、10人が負傷した「秋葉原無差別殺傷事件」(2008年6月)のような無差別殺傷事件、「光市母子殺害事件」(「犯罪被害者のグリーフワーク ―― その茨の道の壮絶な風景」を参照されたし)等の凶悪事件が惹起したら、他の多くの日本人と同様に、何よりも、「被害者・遺族」の心情をベースにするという絶対スタンスを持っているから、心情的には、「自分一人で死ね」という感懐は変わりようがない。

それでも、「悪魔の立場」などと言い切った志らくの、倨傲(きょごう)で、激発的情動言辞とは、一貫して無縁でありたい。

ただ、「川崎殺傷事件」における、「自分一人で死ね」派が占有した感のある、ツイッターなどのソーシャルメディアなどでの情報爆轟(ばくごう)に近接すると、理が非でも、以下の認識の共有を強く念じている。

こういうことである。

即ち、主観的に感じる治安情勢である「体感治安」の悪化とは真逆に、凶悪事件が極端に少ない日本の治安の良さ(2012年の内閣府の「治安に関する世論調査」)を客観的に把握できないが故に、「附属池田小事件」のような凄惨極まる凶悪事件が、偶(たま)さか惹起すると、「消費者」(視聴者のこと)の需要を膨張的に喚起させ、飽きられるまで、各メディアがおどろおどろしい「事件報道」を連射していく相関性が、我が国で構造化されている現実を、知性が押し込められないように認知する必要がある。

――  ここで、「自分一人で死ね」派の情動反応に、異を唱える人物が発信したディスクール(言説)に対して、真摯に耳を傾けたい。

以下は、志らくの発言からおよそ2時間後、「自分一人で死ね」派の情動反応に対する、NPO法人ほっとプラス代表理事・藤田考典(ふじたたかのり)異論

「報道の通り、5月28日(火)朝方、川崎市で多くの子どもが刺殺、刺傷される事件が発生した。現時点では被害状況の一部しか判明していないため、事実関係は明らかではないが、犯人らしき人物が亡くなったことも報道されている。それを受けてネット上では早速、犯人らしき人物への非難が殺到しており、なかには『死にたいなら人を巻き込まずに自分だけで死ぬべき』『死ぬなら迷惑かけずに死ね』などの強い表現も多く見受けられる。

まず緊急で記事を配信している理由は、これらの言説をネット上で流布しないでいただきたいからだ。次の凶行を生まないためでもある。秋葉原無差別殺傷事件など過去の事件でも、被告が述べるのは『社会に対する怨恨』『幸せそうな人々への怨恨』である。要するに、何らか社会に対する恨みを募らせている場合が多く、『社会は辛い自分に何もしてくれない』という一方的な感情を有している場合がある。類似の事件をこれ以上発生させないためにも、困っていたり、辛いことがあれば、社会は手を差し伸べるし、何かしらできることはあるというメッセージの必要性を痛感している。

『死にたいなら人を巻き込まずに自分だけで死ぬべき』『死ぬなら迷惑かけずに死ね』というメッセージを受け取った犯人と同様の想いを持つ人物は、これらの言葉から何を受け取るだろうか。やはり社会は何もしてくれないし、自分を責め続けるだけなのだろう、という想いを募らせるかもしれない。その主張がいかに理不尽で一方的な理由であれ、そう思ってしまう人々の一部が凶行に及ぶことを阻止しなければならない。そのためにも、社会はあなたを大事にしているし、何かができるか、しれない。社会はあなたの命を軽視していないし、死んでほしいと思っている人間など1人もいない、という強いメッセージを発していくべき時だと思う。

人間は原則として、自分が大事にされていなければ、他者を大事に思いやることはできない。社会全体でこれ以上、凶行が繰り返されないように、他者への言葉の発信や想いの伝え方に注意をいただきたい」(筆者段落構成)

、「次の凶行を生まないため」に、「自分一人で死ね」派の激発的で、情動言辞の連射に抑制を求めているのある

このような異論が出ることを想像できなかったであろう、「自分一人で死ね」派の激発的情動言辞の風景は、まるで、火災の現場で起きる爆発として知られる「バックドラフト」現象そのものだった。

「川崎殺傷事件」の渦中(かちゅう)で、51歳犯人向けられた「ネット民」や、テレビメディアのコメンテーターの怒りの感情が炸裂、知性が押し込められ、コントロール不全の物情騒然の事態は異様であると言う外にない。

繰り返すが、「当然の感覚で、全く批判には当たりません」という古谷「疑似ロゴス」、複雑な背景があるかも知れない事件の構造を、客観的思考の提示に振れることをせず「悪魔の立場」言い切った志らく激発的情動言辞と本質的に同義であり、とうてい、成人が使用する言語とは思えない。

「僕も“一人で死ぬべき”に近いような“道づれにするなよ”とは感じている」とも言い切った心情の吐露を理解できれば、藤田が殺人犯を決して擁護していないことは明瞭である。

加えて書けば、藤田は一貫して、「貧困の解決が、事件を防ぐ唯一のアプローチである」とは、一言(いちごん)も触れていないのだ。

藤田ディスクールの核心を捉えることすらできない知性の貧困 ―― これが、コントロール不全物情騒然の事態の根柢に伏在している。

確かに、藤田の表現には、この惨憺(さんたん)たる事件によって、日本中が沸点まで一気に達し、滾(たぎ)らす空気が醸成されている渦中にあって、メディアの主観の暴走を心理的推進力にてフルスロットルされる状況下で、まるで、「悪目立ち(わるめだち)」(悪い面が目立つこと)のように、彼なりの使命感が膨張的に外化(がいか)され、内在する感情が性急に可視化した側面があった。

これが、一連の激発的情動言辞の氾濫に抵触(ていしょく)し誤解を出来(しゅったい)させたのである。

思うに、藤田のアウトプット(発信)が全開した行為は、「横一線の原理」で動きやすい日本人が最も嫌う、「水を差す異論」であると思われても仕方がない面があった。

この辺りは、後述する。


時代の風景「『川崎殺傷事件』 ―― それを囲繞する空疎な風景への苛立たしさ」よりhttps://zilgg.blogspot.com/2019/06/blog-post_25.html