近代とは時間の革命だった

イメージ 1かつて人々は、黄昏の空に一日の活動の終焉を読み取り、暗黒に近い長い夜の時間を恐れ、為す術がなく眠りに就いた。
 
夜と昼は黄昏の空によって切れていて、それは決して地続きになってはならない、二つの別々の世界であった。

 子供たちを畏怖させる怪談話が、黄昏時に多く題材を得ていたのは決して偶然ではない。
 
多くの子供たちにとって、夜は闇の恐怖であり、それは、自在に駆動する身体を狭い家屋に閉じ込める時間の鎖でもあった。

 私たちの近代は、この二つの異質の世界を繋いでいく歴史でもあった。

 夜の闇に、突如、太陽が闖入(ちんにゅう)してきたのだ。
 
人工光源の発明は、人々の時間観を変え、労働観を変え、生活観を変えていった。
 
やがて昼が延長され、夜の闇が瞬(またた)く間に削り取られていく。
 
闇の崩壊が、近代の最大の変化の一つでもあった。

 盛り場でない私たちの普通の生活圏に、今、24時間ストアが彗星の如く出現し、あっという間に定着した。
 
人々のニーズへの適切な反応であったからだ。
 
私たちが不眠を恒常化する日常の出現もまた、私たちの近代の性急過ぎる速度に、私たちの身体が適切に反応していった結果でもあった。
 
私たちの体内時計が遂に、近代の「闇殺し」の速度に従順に反応していくことで、恐らく劇的に変質してしまったのである。

 だから夜が来ても、私たちは入眠時身体を作れず、意識と身体の裂け目が一向に埋まらない。
 
私たちの脳はどこかで闇の記憶を残しているから、体内時計の革命者でない限り、入眠を発令して来るものに抗えず、これを行使しようとするが叶わず、結局、ジレンマを深めるだけになり、内側の裂け目が広がっていくばかりとなる。

 
 速すぎる変化には、大抵、そこに手痛い「補償」が待っている。

 
変化に誠実に対応する自我ほど、変化のシビアなリバウンドを真っ向から受け止めることになるに違いない。
 
乱暴な言い方をすれば、不眠症者とは、本当は不夜城化した都市と充分に嵌(はま)っていない人々なのではないか。
 
それにも拘らず、人間の自然な体内時計である「概日リズム」を壊して、その体内時計を真面目にシフトさせてしまったから、中々、本来の日常性を復元できなくなってしまったのである。
 
常に誠実な革命者ほど、その変化の先に待つものの逃れ難き犠牲者に供されてしまうのだろうか。

 その破天荒な夜型生活の延長上に、体内時計をすっかり変えてしまった人々には、不眠症で悩むようなナーバスな気質が果たして見られるだろうか。
 
少なくとも、私の周囲には見当たらない。

 夜型生活者は、夜になればなるほど元気が出て来て、一気に朝まで走り抜け、朝方の僅かな睡眠だけで出勤の途につく。
 
  昼ごろまではボォーッとしているが、午後になるとようやく始動体制が整って、加速的にエンジンが増強されてくるから不思議である。

 これが2、3日続くとさすがに疲労を覚え、週の半ば頃には、珍しく早寝に入っていく。
 
一切、自分の体が要請するままに動き、それが自然のリズムを作るのだ。
 
不思議に仕事の律動にも合っていて、支障を来たすことは滅多にない。
 
だから長く続くのだが、その生活が身体を蝕むことがないのは、自我が必要以上に不眠の観念に縛られていないからである。
 
それ以外に考えられないのだ。

 彼らの中では、「8時間睡眠」の幻想がとうに崩れているから、夜が白んできても、時間をカウントダウンすることが全くない。
 
それどころか、眠らないで過ごした時間を「儲けた」という感覚で捉えるから、苛立ちや不安を覚えることなどあり得ないのだ。

 近代の凄まじきウェーブにまんまと嵌った典型者が、ここにいる。
 
このような人々を、「体内時計の革命者」とでも呼ぶべきか。 
 
このような人々のためにこそ、私たちの近代は存在するのであり、その輝きをほぼ占有してしまうのである。

 しかし、近代の速度に積極的に乗れず、だからと言って、そこから確信的に脱却できない真面目な追随者はどうなるのか。
 
それを考えてみよう。

 近代とは時間の革命だった。
 
 何より、この把握が前提になる。

 より多く、充実した時間を手に入れるために、人々は少しずつ夜の闇を壊して、それを白昼の時間の延長上に取り込んでいった。
 
その取り込んだ時間の分だけ、快楽を増強させていったのである。
 
この文脈こそが、近代のエッセンスであると言っていい。
 
 
 
 
(新・心の風景 「近代とは時間の革命だった」)より抜粋http://www.freezilx2g.com/2014/07/blog-post_53.html