<「否認」の「トラウマ」が自我の底層に固着し、感情処理の出口が完全に塞がれてしまっていた>
1 漏れる嗚咽を必死に押し殺す少年
ズビャギンツェフ監督の最高傑作。
英当局によって特定された「在英ロシア人元スパイ毒殺未遂事件」(2018年/有毒な神経剤「ノビチョク」による毒殺未遂)に象徴される、現代ロシアのきな臭い政治状況の心理圧にめげず、これほどの映像を構築する映画作家が存在することに救われる思いを持つ。
ハネケ監督と共に、次回作を最も待望して止まない映画作家である。
この監督の映画を観たら、邦画を観る気が完全に失せる。
感傷過多の邦画界は、何とかならないのだろうか。
―― 以下、梗概。
離婚を前提にした夫婦の毒気満点の会話から起こしていく。
「君は例の件、考えた?」
「何を?」
「女親が引き取るべきだ」
「最低な人ね」
「母親が必要だ」
「あの年頃には父親の方が。あなたじゃダメかもね。寄宿舎なんて、サマーキャンプと同じよ。軍隊に入る時の練習だと思えばいい。私に何を期待してたわけ?また、失敗の尻拭いをさせる気だった?もうゴメンよ。前に進ませてもらう」
「責められるぞ」
「あなたがね。でも誰に?」
「ソーシャルワーカーとか児童心理者とか、行政監察官」
「じゃ、自分で引き取れば?」
「母親の方が責められる」
「心配してくれるわけ?優しいこと。ソーシャルワーカーは大喜びでしょうね。子供を救えるんだもの。親がどんなに傷ついていても、お構いなし」
「もう一度、お義母さんに相談を」
「自分の両親の霊に相談すれば?母にはキッパリ断られた。子供を心配していると思った私がバカね。あなたがクビになったら、笑える。子供を施設に送るなんて、キリスト教徒らしからぬ行為。まったく情けない人」
「もう、うんざりだ」
「ムカつく」
「あの子には、いつ?」
「知らないわ。あの子には、あんたが話すの。いつでもどうぞ。今、起こせば?さっさと行って」
妻ジェーニャは夫ボリスを置き去りにし、その部屋を去っていく。
トイレに行き、「話はもう終わりよ」と言い放つ。
あろうことか、リビングの外の扉の陰に隠れ忍んで、両親の言い争いを、一人息子アレクセイが耳に入れてしまった。
口を手で押さえて、漏れる嗚咽を必死に押し殺すアレクセイ少年。
トイレから戻って来ても、両親の激しい言い争いが続く。
「何も言わないで。顔も見たくない!今すぐ、出て行って!邪魔なのよ!」
「俺の家でもある!」
「売れたら、半分あげるわよ!」
遣り切れない映画の、遣り切れない夫婦の、遣り切れない会話の一部始終である。
この遣り切れなさは、この会話を耳にした一人息子・アレクセイの〈生〉を決定づけることで、ピークに達する。
その夜、アレクセイはモスクワ郊外のマンションにある自分の部屋に戻り、泣き続けるだけだった。
この夫婦の会話で判然とするように、二人には愛人がいて、既に、売りに出している自宅マンションに帰宅しない日々を繋いでいた。
夫ボリスの愛人の名は、妊娠中の恋人マーシャ。
妻ジェーニャには、留学中の娘を持つ47歳の恋人アントン。
今や、アレクセイの養育義務を、夫婦のどちらが負うかというテーマだけが喫緊の課題だった。
翌朝、母が作った朝食を、もう食べられないというアレクセイ。
「残りは捨てろとでも?何よ、具合悪いの?」
「違うけど…」
「まあ、いいわ。“ごちそうさま”は?」
この間、母親ジェーニャは、ずっとスマホをいじり続けている。
ノモフォビア(スマホ依存症)を印象づけるほど、スマホを手離せないのだ。
無言で着替え、家を出て、何ものも視界に収めることを拒絶するかのように、階段を走り去っていくアレクセイ。
2012年10月10日の出来事である。
以下、人生論的映画評論・続: ラブレス('17) アンドレイ・ズビャギンツェフ」('17) より