エリザのために('16)   クリスティアン・ムンジウ

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<人間と社会の歪んだ関係のフレームが、人間相互の関係にまで下降していく>


1  「お前たちの手で、この国を変えられるなら、残って闘えと言うよ。でも変わるとは思えない」


「どうしたの?」
「石を投げ込まれた」
「誰に?」
「知らん」
「気味悪いわ」
「まったくだ」

突然、投石で窓を割られ、男は外に出て、犯人を捜し回るが、見つけられず家に戻った。

男の名はロメオ。

警察病院に勤務する50歳の外科医である。

娘の名はエリザ。

9月にイギリスの大学に行くための奨学金の試験を、明日に控えている女子高生。

図書館司書を務める妻のマグダは病気がちで、ロメオが家事も担っている。

この日も、エリザの弁当を作っていた。

忌まわしき事件が出来(しゅったい)したのは、ロメオが娘のエリザを学校へ送る途中で降ろした直後だった。

それにしても、時機が悪かった。

ロメオが事件を知ったのは、英語教師の愛人サンドラのアパートで愛し合っている只中だった。

因みにサンドラは、かつてエリザの家庭教師であり、発話障害のある子・マティと二人暮らしのシングルマザー。

そのサンドラのアパートにいるロメオの携帯が鳴り、エリザが暴漢に襲われ、ロメオの病院に搬送されたという連絡が入った。

慌てて病院に行くと、妻マグダにエリザを向かいの交差点で降ろしたことを責められる。

父親の多忙を知るエリザが、歩いた方が早いと言って降車したのである。

幸いにして、手首を捻挫しただけの軽傷だったが、性暴力に被弾したショックで、激しい不安に苛まれるエリザ。

そのエリザの精神状態が落ち着くのを、病棟の廊下で待つロメオとマグダ。

距離を取り、向かい合って座っているカットで、夫婦仲が冷めているのが透けて見える。

ロメオは担当医から意外な事実を知らされる。

精液が検出されなかったことから、犯人は勃起しなかったこと。

そして、エリザに男性経験があること。

前者によって、エリザが被弾した性暴力が未遂事件であった事実が判然とする。

そのエリザは、警察でレイプ犯の写真を見せられるが、該当者がなく、似顔絵を描くことになる。

正式に告訴するため、詳細に事情聴取されるエリザ。

そこで、ロメオは友人の警察署長イヴァノフに、必ず逮捕すると伝えられる。

大学入学の条件である卒業試験を明日に控え、ロメオは是が非でも受けさせようとするが、エリザの動揺は収まらず、夜半になっても嗚咽が止まらなかった。

【ここで軽視できないのは、朝の歩道を歩いていたエリザが、犯人に引き摺り込まれた際に複数の通行人がいたこと。複数の通行人が傍観者であった現実は、38人の察知・目撃者がいながら、一人の女性の殺人事件を防止できなかった「キティ・ジェノヴィーズ事件」によって検証されている。いわゆる、どこの国でも出来する「傍観者効果」(責任分散・多元的無知・聴衆抑制)の心理学で説明可能である】

そして、卒業試験当日、学校へ付き添ったロメオは、試験官に娘の試験の延期を懇願するが、結局、エリザは受験し、合格ラインのスコアが得られなかった。

そこで、イヴァノフに相談すると、肝硬変でドナーが必要な副市長ブライに電話し、ドナー提供の優先順位を上げる交換条件として、娘の合格を善処するように依頼するのだ。

ブライに会いに行ったロメオが、ブライの病状や手術の話をした後、ロメオの訪問目的の本題について話し出すや、その含意を理解したブライは、罪責感の欠片(かけら)もなく、ダイレクトに答えていく。

「娘さんお事なら、気にせんでいい。人の命が助かるなら、1点や2点。さっき、試験委員長に電話したら、快く引き受けてくれたよ。以前、あいつの女房が市役所を解雇されかけてね。産休から戻れるように、手配してやったんだ。それ以来、良くしてくれる…何事も助け合いだ」

早速、試験委員長の自宅に訪ねたロメオは、朝の非礼を詫びた後、直截に娘の合格についての話に入る。

「何点あれば、合格できる?」と試験委員長。
「小学生になるには平均で9点」とロメオ。
ルーマニア語は?」
「よくて8点」
「誰かに話した?」
「いえ、今からでも変えられますか?」
「事後では無理だな。委員会には他校の教員もいる」
「巻き込むのは心苦しいが、できれば何とか」
「よくある事だ。数学の成績は?」
「学内評価の平均が10段階で9.6」
「優秀だな。実力でも満点も取れる」
「普通の状態なら」
「採点者の一人は面識がない。もう一人は話が分る男かだ、双方の同意がいる」

朝一番に委員長が行くか、採点者を知り合いに替えるか、他に方法はないか思案する。

「できる事は何でもします。謝礼は?」
「金は要らん。ブライさんには恩がある」
「無理をさせるのに、お礼もなしでは」
「金をもらう気はない」

結局、解答用紙の1ページ目の最終行の単語3つを横線で消すという、本人であることの印を娘につけされることで決着する。

「迷いがあるなら今のうちに。信頼がなくては始まらん」
「悪い噂は、お互い命取りだからね」
「秘密は守ります」
「手を貸すのは、あくまで娘さんのためだ。救済すべきだが、他に方法はない」

娘のために奔走するロメオは、帰りの途中車を止め、車道脇の暗闇に入り込み、嗚咽する。

誇りを捨て、一線を越えてしまった自分の不正を強く自覚し、自尊感情を傷つけてしまった故の嗚咽である。

家に戻り、エリザの受験について話すとマグダは反対する。

「一度、道を踏み誤れば、戻れなくなる。帳消しにして、出直すなんて無理。心の底では分ってるはずよ。エリザに裏道を歩かせるなんて。きっと後悔する」
「外へ出すために、育ててきたんだ…満足か?今の暮らしに。僕らの二の舞になれと?」
「だからと言って、人生の門出に、背負い切れない重荷を?」
「大切なのは、試験の点数じゃない。学校の勉強にしたって、まともな国へ旅立つ手段に過ぎん」
「どんな道を通るかも大切よ」
「白昼の路上で、襲われるような街に、娘を住まわせたいか?」
「不幸な事故よ」
「国が悪いんだ。正しい道を選んだ君は、望んでもない図書館員に。親が決めれば、娘に罪はない」
「私たちの一存で決められることでは」
「君はいつも、ケチをつけるだけで、責任を取ろうとしない…今だって、僕は喜んで信念を捨てる。愛する娘のためならね」

ロメオは、エリザの部屋へ入り、様子を確認しながら、試験の話に話題を変えていく。

「試験で失敗しても怒らないでね」
「今までの努力を、無駄にするんじゃないぞ」

ロメオは自分の体験を語り、静かに娘を諭す。

「1991年、民主化に期待して母さんと帰国したが、失敗だった。自分たちの力で、山は動くと信じたが、実現しなかった。後悔はない。やれることはやった。でも、お前には。別の道を歩んで欲しい」

そう言って、ロメオは胸ポケットから紙を出し、試験委員長に指示された方法を伝える。

「何の話?」
「何も聞かずに線を引けばいい。分ったな?結果を出さないとダメな時がある。誤解するなよ。ズルくなれと言ってるんじゃない。この国で生きるには、しがらみを逆手に取ることも必要だ…向こうに着いたら、自分で判断すればいい」
「何が最善か」
「そうだ。お前たちの手で、この国を変えられるなら、残って闘えと言うよ。でも変わるとは思えない」
「お母さんは?」
「人生に勝ち負けはあるのは理解している」

父に背を向けるエリザ。

娘の進路で悩み、動き続けるロメオと同様に、エリザもまた、追い込まれているのだ。

以下、人生論的映画評論・続: エリザのために('16)   クリスティアン・ムンジウより