<宗教イデオロギーで「禁止・裁き」を断行する「狂気」の猛威>
1 「娘は俺のすべてだ。この世で最も大切な宝だ。娘は保護者を失う。それが一番の気がかりだ」
ニジェール川の中流域にあるティンブクトゥ(「トンブクトゥ」とも言う)。
マリ共和国(西アフリカ)の世界遺産(文化遺産=「黄金の都」/1988年)として、つとに知られている。
13世紀に誕生したマリ帝国の支配下にあって、北アフリカに拠点を持つムスリムと内陸の黒人との交易拠点になり、サハラ砂漠の通商路(サハラ砂漠を横断するキャラバン・ルート)と化すが、「大航海時代」のポルトガルによって、サハラ砂漠を経由しない海洋交易が主流となるに至るまでの約300年間、一代の繁栄を誇った交易都市である。
「モロッコのフェズやアルジェリアのコンスタンチーヌなどと同じように、歴史ある古都です。大学があり、15~16世紀には各地から哲学者や法律家たちが集まり、宗教にとらわれず思索を深め議論した『知の都』です。自由と平和、多文化が出会う場であり、寛容のイスラムの伝統を引き継いでいます。ですから自由を受け入れないイスラム過激派には、この街を占領する象徴的な意味があったのです」
これは、アブデラマン・シサコ監督インタビューで語られた、ティンブクトゥ(映画の原題は「TIMBUKTU」)についての端的な説明である。
ティンブクトゥは、16世紀に黒人による世界初の大学を作ったことでも知られる、「宗教にとらわれず思索を深め議論した『知の都』」なのだ。
―― ここから本作で描かれた映像世界に入っていく。
このサヘル地帯に位置するマリ共和国の古都ティンブクトゥの近くの砂漠に、テント生活をするトゥアレグ人家族がいる。
「みんな、いなくなった」とサティマ。
「全員避難した」とキダン。
「残っているのは、私達のテントだけ」
「ここを離れて、どこへ行く?逃げ続ける日々だ。トヤに飢えや渇きを味わわせたくない」
「せめて、ほかの人たちの近くに」
「皆、そのうち戻るさ。奴らも、いつかは去る」
「あの人たちが怖いの。あなたがいない時、ここに来る」
「お前の支えが必要だ。辛抱してくれ。お前がいれば、戦えるし、耐えられる」
「気持ちはわかる」
「俺も怖い」
これは、映画の主人公の少女・トヤの父母の会話。
会話の背景にあるのは、2012年、この地域にイスラム過激派(映像提示されていないが、正確には、国際テロ組織「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ」)の侵入によって、街全体が支配され、厳格なイスラム法による恐怖政治の横行。
2012年のこと。
絵画・彫刻という芸術的表現の未発達に象徴されるように、偶像崇拝を徹底的に否定するイスラム教の根本思想を具現するオープニングシーンは、既に、トゥアレグ族(ベルベル系の遊牧民)の多くが住むサヘル地帯(サハラ砂漠南縁部)・ティンブクトゥ一帯が、イスラム過激派によって支配されている現実を物語っている。
チュニジア共和国のベン・アリー、エジプト・アラブ共和国のムバラク、リビア・アラブ共和国のカダフィという、北アフリカから3人の独裁政権を崩壊させた「アラブの春」の巨大なストーム。
この巨大な狂飆(きょうひょう)の只中で、カダフィ殺害によって崩壊したリビアの政治危機に乗じて侵入したイスラム過激派が、ティンブクトゥ一帯にまで勢力を広げていった。
かくて、ティンブクトゥ一帯を支配するイスラム過激派は、音楽・酒・タバコ・サッカーなど、全ての住民に一切の娯楽を禁じる。
因みに、母サティマが「あなたがいない時、ここに来る」と言って怖れるのは、サティマを狙っている過激派のアブデルグリムのこと。
過激派は、夜な夜な、音楽に興じている家を捜索する。
そこで耳に留まったのがキダンの家。
キダンはギターを趣味とし、サティマとトヤが歌を歌うのだ。
過激派の捜索隊は、その一家を逮捕するか否か、指導者に指示を仰ぐことになる。
キダンの一家が歌っていたのは、神と予言者ムハンマド(マホメット)を讃える歌。
彼らもまたイスラム教徒なのである。
逮捕を免れた一家は、GPSと名付ける牛に特別な愛情を注いでいた。
ところが、そのGPSが漁師アマドゥによって槍を放たれ、殺されてしまう。
牛飼いの孤児として、キダン家に共存しているイサン少年が、川で牛の群れを誘導している際に、GPSが漁の網を壊してしまったこと。
これがGPS殺害の起因になった。
殺害現場を目の当たりにして、衝撃を受けるイサン。
イサンは泣きながら走って戻り、キダンに事態を報告する。
「牛に水を飲ませるため、川に連れてった。GPSが群れを離れて、アマドゥの網の方へ。追いかけたけど、間に合わなくて、GPSは殺された」
それを耳にしたギダンは、矢庭に銃を持ち出す。
事情を知ったサティマは、夫を止める。
「話し合うべきよ。武器はいらない」
「出会った時から持ってる」
「トヤが生まれる前よ」
心優しいトヤは、泣き止まないイサンを慰めるのだ。
「牛はいつか必ず死ぬものよ。また別の牛を買えばいい。そして、その牛にGPSという名をつけるの」
そして二人は、誇りに思う父親についてお互いに語り合うシーンが挿入される。
「父さんは兵士じゃない。兵士はみんな早く死んじゃう。離れてる時も私は知ってる。父さんは歌う人」
父ギダンを尊敬するトヤの言葉である。
しかし、「歌う人」にとって、GPSの殺害は絶対に許し難き事態だった。
「いずれ通る道だった。こんなこと終わりにすべきだ。侮辱は終わりにする」
放牧と漁という、糊口(ここう)の資を異にする者たちの確執が突き当たる事態を覚悟したキダンの言葉である。
そう言うや、妻の制止を聞かず、銃を持って出かけていくキダン。
かくて、平和な家庭を築いていた一家の運命が一転していく。
一方、イスラム過激派は住民に繰り返し警告を発している。
「戒律を守れ。人前に身をさらすのは禁止。家の前に座るのも、ただ立つのも禁止。通りをウロつくことも禁止する…ラマダン(断食)の月に姦通を行うことは最悪の大罪だ。これを犯した者は、石打による死刑とする」
そんな中、禁止されているサッカーをした住民に、鞭打ち20回の刑が言い渡される。
そして、エアサッカーに興じる若者たちの集まりにも、過激派が監視にやって来るのだ。
即座に、各自でキントレストレッチを行い、摘発を免れる若者たち。
若者たちの知恵の方が勝っているのだ。
キダンがアマドゥのところにやって来たのは、そんな折だった。
二人は小突き合い、揉み合いになった挙句、キダンの銃が暴発し、アマドゥを殺してしまう。
動転しながら、その場を離れるキダン。
過激派によって、キダンが逮捕・連行されたのはその夜だった。
間違ってもあってはならない事態を知ったサティマは、先行きを心配するトヤに、キダンはすぐ戻ると言って安堵させる他になかった。
シャリーア(イスラム法)に基づいた尋問で、通訳を介して、キダンは自分の思いを吐露する。
「娘は俺のすべてだ。朝はミルクを用意し、夕方には牛を集めてくれる。この世で最も大切な宝だ…運命は受け入れる。死も怖くない。人は皆、誰かの子。子を守る義務が。娘は保護者を失う。それが一番の気がかりだ。先が分からんまま墓場へ。親しい友人も死んだ。すべては神の御業だ。神を信じる。神の行いは正しい」
「まもなく父親を失う娘さんを思うと、私も胸が痛む」
これが、通訳を禁じた際のシャリーアの裁判官の言辞。
過激派の中にも、こんな人物がいることを示唆する映像提示だが、それでも通訳を禁じる辺りが過激派たる所以である。
「お前は部屋で音楽を奏し、逮捕された。禁止行為だと?歌を歌った罪で鞭打ち40回。部屋に集まった罪で40回だ」
歌を歌った罪の重さ。
これはファトウの鞭打ち刑によって映像提示された。
鞭打ち刑が始まるが、痛みを堪えて歌うファトウ。
“古いしきたりは、もう、おしまいに…”
理不尽な暴力に抗して歌い続けるファトウの文化的抵抗という決定的な構図は、本作を通底する基幹メッセージである。
そして、今度は電話で話をしていた女性が連行された。
母親との話で、赤の他人と強引に結婚させられることを拒絶する意思を伝えた。
その間、カップルが石打刑で処刑されるシーンが挿入される。
過激派の本性が露骨に描写されていく。
キダンの裁判は続いている。
一方、僅か7頭の牛を放牧して、父キダンを待ち続ける家族。
思い余って、サティマはアブデルクリムに電話する。
キダンの救済を求めるのだ。
電話に運転手が出て、“もう何もできない”というアブデルクリムの伝言が、けんもほろろに届くのみだった。
サティマに好意を持ち、隠れてタバコを吸うようなアブデルクリムが、キダンを救済するとは到底考えられないのである。
キダンは最後に訴える。
「彼(アマドゥのこと)の死は俺も悲しい。あれは事故だった。今朝、夜が明けて、俺にはまだ命があった。神が与えし一日だ。何が起ころうと受け入れる。心残りは一つだけ。娘の顔が見たい。妻にも会いたい。神に願う。あなたが父親なら分かるはず。俺の痛みが。死は怖くない。もう俺の一部だ。神の方で俺を裁くなら、裁くがいい。覚悟はできている」
一方、娘の略奪婚を拒絶する母親の仲介に入った有力者と、過激派のメンバーの話し合いが行われていた。
イスラム法で保護者の許可なく婚姻ができないとの主張に対し、過激派は「我々が保護者であり、法に則り結婚した、それは支配者が決めることだ」と言って、取り合わないのだ。
イスラム聖職者とイスラム過激派の議論がエピソードとしてインサートされているように、最高指導者が曖昧なイスラム過激派の脆弱性が浮き彫りにされている。
こうした恣意的な法の押し付けにより、過激派が望む一方的な結婚が横行し、村では不満と恐怖が蔓延していた。
そして今、キダンの処刑の準備が進められていた。
狂気故にか、鶏を肩に乗せて自在に移動し、歌うことが許されている女・ザブーがオートバイに乗り、キダンの家に向かい、サティマを乗せて刑場に連れて来た。
夫の元に走るサティマ。
それに気づいたキダンは、銃口からサティマを守ろうとするが、呆気なく、二人とも銃殺されてしまう。
一人残されたトヤは、泣きながら父母を求めて砂漠を走っていく。
牛飼いのイサンも走る。
銃を構えた過激派に追われるザブーも走る。
過激派に反抗する彼女もまた、約束された死をトレースするのである。
ラストシーン。
走り続けるトヤの哀しみの表情が、抵抗不能の人々の悲劇の収束点になっていく。
いつの時代でも、酷薄な状況に置き去りにされるのが、大人に依存なしに生きられない子供である現実を訴える終幕は、作り手のメッセージでもあるだろう。