blank13('17)    齊藤工

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<「家族」という小宇宙の闇の呪縛を解いていく>

 

 

 

1  「現象としの父親」に対する否定的観念系の中で円環的に閉じている

 

 

 

「自分が見たものが全て」

 

多くの場合、人間は現象に対して、この思考回路の視界限定の狭隘さの中で円環的に閉じている。

 

この戦略が安寧を防衛的に担保してくれるからである。

 

だから、この思考回路の狭隘さをアウフヘーベンするのは容易ではない。

 

より視界良好の地平にまでアウフヘーベンするには、現象に関与する内的時間の層が、継続的、且つ、高強度のリテラシーを手に入れていなければならないだろう。

 

なぜなら、現象に関与する内的時間の層が、情動系を強化させたエクスペリエンス(体験)として自我に張り付いてるから、蓋(けだ)し厄介なのだ。

 

現象に関与する内的時間の層が、否定的観念系の中で円環的に閉じているなら、より視界良好の地平にまでアウフヘーベンするのは艱難(かんなん)さを露わにするに違いない。

 

映画では、長男のヨシユキが、この状況において宙吊りにされていた。

 

「現象としの父親」に対する否定的観念系によって自我を反転的に形成し、「家族を守る長男」という自己像を延長させることで、その〈生〉を繋いできた行為のコアにあるのは、「現象としの父親」の破壊力だった。

 

それは、「永遠なる不在者」と同義である。

 

「あなたみたいにになりたくない」

 

胃癌で余命3ヶ月の父・雅人を見舞いに行った際に、病院屋上で、次男コウジが、ヨシユキの言葉を代弁したもの。

 

それこそが、「現象としの父親」=「あいつ」を、「永遠なる不在者」にしたヨシユキの適応戦略だった。

 

成就したと信じるこの適応戦略が、大手広告代理店に勤めるエリートにまで上り詰めたヨシユキの決定的推進力になったと思われる。

 

「現象としの父親」に対するヨシユキの否定的観念系を準拠枠に考えれば、この映画の風景が透けて見えてくる。

 

「早くしないと終わんないよ」

 

これは、怪我した母の代わりに新聞配達する只中で、少年期のヨシユキが、必死に走るコウジに言い放った言葉。

 

「そんなこと分かってるよ。いま、作ってるんだろ!なんで俺が、こんな苦労しなくちゃいけないんだよ!」

 

これも同様に、遅刻を気にするコウジに、少年期のヨシユキが、苛立ち紛れに言い放った言葉。

 

この二つの台詞が、少年期のヨシユキが、物語の中で捨てた言葉の全てである。

 

二つの台詞に象徴され、透けて見えるヨシユキの父親像が、「自分が見たものが全て」の風景だった。

 

かくて、「現象としの父親」に対するヨシユキの否定的観念系が、彼の自我を反転的に形成し、ブラッシュアップして成就し得た若者は今、なお延長された時間の渦中に、安アパートの臭気が漂う家族を訪ねる。

 

逸早く、「あいつ」の末期の胃癌の情報を入手し、それを伝えるために安アパートを訪ね、いつものように金を渡すのだ。

 

末期癌の情報を入手しながら、弟と母が見舞いに行かないと信じたであろうヨシユキが、「集まる必要もなかった」と言って帰っていくのは、穿(うが)って見れば、「家族を捨てた男」から「家族を守る長男」という肯定的自己像の確認だったようにも思われるのである。

 

だから、ヨシユキの否定的観念系が崩されることがない。

 

崩されてはならなかった。

 

大袈裟に勘ぐって言えば、「家族を捨てた男」から「家族を守る長男」という肯定的自己像が、その彩度を失ってしまうのだ。

 

「家族を捨てた男」と「家族を守る長男」。

 

後者の「唯一性」=「絶対性」に、揺るぎがない。

 

そこには、彼の否定的観念系に集合する感情の束が渦巻いている。

 

「家族を捨てた男」の見舞いなど、無条件で有り得ない。

 

そんな状況下で開かれた、「家族を捨てた男」を偲ぶという弔いの儀式。

 

ところが、映像中盤で提示された「blank13」を契機に、風景が一変する。

 

人生論的映画評論・続: blank13('17)    齊藤工 より