1 「これからは僕がずっと一緒だから、安心してよ。木下恵介から、ただの木下正吉に戻るよ」
「昭和18年。太平洋戦争の最中、木下恵介は『花咲く港』で監督デビューした。浜松出身の木下は、この場所でもロケを行い、実家からこの浜へ通ったという。木下は、同じ年に、『姿三四郎』で監督デビューした黒澤明と共に、優れた新人監督に与えられる『山中貞夫賞』を受賞。幸福な監督人生を歩み始めた」(ナレーション)
「花咲く港」から、昭和19年に製作された「陸軍」へと映像が遷移する。
「しかし、戦局の悪化と共に、国家から国民への戦争協力がより一層叫ばれ、映画界は戦意高揚の作品作りが求められるようになる。木下が昭和19年に監督した『陸軍』は、そういう時代に作られた作品だった。試写を観た内閣情報局の検閲官は、ラストシーンで戦場へ向かう息子を見送る母の姿が女々しく、戦意高揚の役に立たないと文句をつけ、木下の次回作の企画を中止させる」(ナレーション)
昭和20年(1945)4月。
松竹大船撮影所の一室で、所長の城戸四郎に、次回作の企画中止を言い渡され、抗議する木下。
「君だって分かってるだろ。戦局は、ますます悪化して、映画作りも政府の統制下にある。製作本数もフィルムの使用量も、内容だって、我々の自由にならないんだよ」
「そんなこと、分かってますよ!だからって、親子の情を描くことが、なぜいけないんですか!母親ってそういうもんじゃないんですか!」
怒りが収まらない木下は「辞表を書きます」と言い放ち、城戸(きど)の引き止めるのも聞かず、撮影所を辞めていく。
静岡県 気賀町(けがちょう)。
実家に帰ると、母・たまは、病気で布団に伏していた。
「これからは僕がずっと一緒だから、安心してよ。木下恵介から、ただの木下正吉(しょうきち)に戻るよ」
「昭和二十年 六月十八日 浜松大空襲。その夜、泊まっていた恵介は、炎の中を逃げ惑った」(キャプション)
【因みに、複数回にわたる「浜松大空襲」は、軍施設・軍需工場が数多くあった(世界有数の航空機メーカー「中島飛行機」)ことで、米軍の戦略爆撃と英海軍の艦砲射撃のターゲットにされ、多くの犠牲者が出た】
父・周吉の店も焼け、無事だった家族全員が集まり、気多村への疎開について話し合う。
たまをバスで連れて行くという周吉に対し、正吉は六十キロの道をリヤカーが運んだ方が負担が少ないと主張し、たまもそれを了承する。
夜中に便利屋を呼び荷物を引かせ、正吉はリヤカーに母を乗せて、兄の敏三と共に暗い夜道を出発するのだ。
峠で日の出を拝むたま。
朝焼けに染まり、正吉と敏三も一緒に御来光(ごらいこう)を拝む。
朝食の休憩中、便利屋が二人の仕事について訊ねると、敏三は浜松で尾張屋という食料品店をしていたが、空襲で焼けてしまったことを話す。
続いて敏三が、正吉の職業が映画監督であると言おうとすると、正吉が遮り、「今は無職だ」と本人が答えるのみ。
それを「映画館」と勘違いした便利屋は、しばらく映画を観てないと零(こぼ)す。
しかし、それ以上に美味しいものを食べていないと、次々に食べたい物を食べる仕草を始める便利屋。
剽軽(ひょうきん)な男である。
「いつになったら、また食えるようになるんずら。なんか、食う前より腹が減ってきたずら。欲しがりません、勝つまでは、か。さりとて、腹が減っては戦はできぬ、だ」
その話を聞いていたたまが、自分の握り飯を便利屋に分けることを伝え、正吉に渡すのである。
厳しい坂道で荷物を運ぶ便利屋が、今から戻って、汽車とバスを使った方がいいと正吉に声をかける。
「帰りたきゃ、荷物を置いて帰っていいよ」
先に進む正吉に、立ち止まって便利屋が反駁する。
「映画館勤めの青瓢箪(あおびょうたん)が、舐めたこと、こきやがる。泣き言こくなよ。よからす。やらまいか」
峠の坂道で往生する一行に、激しい雨が叩きつける。
雨の中でリヤカーを先導する敏三の力が抜け、正吉に交代する。
ようやく峠を越え、宿場町に着くが、どこも満員で、探し回った末に、泊めてもらえる旅館が見つかった。
出発から17時間経っていた。
宿に上がる前に、雨で泥が跳(は)ねた母の顔を丁寧に拭き、髪を整えてあげる正吉。
凛とした表情で、それを受ける母と、正吉の母を慮る振舞いに、周囲の皆が胸を打たれ、黙って見つめている。
空いている部屋が2階だというので、正吉がたまを背負い、一段ずつ上っていく。
「とんだ、強情っ張り(ごうじょっぱり)だに」
便利屋は脱帽するのだった。
「脳溢血だがに」と便利屋。
「おふくろは、東京で、こいつのとこにいたんだけんど、去年の11月、東京が初めて空襲に遭った時に倒れてね。家で療養してたんだけんど、今年の3月に強制疎開で立ち退きになって、帰って来たんだ」
この敏三の話で、言語を失った母たまの疾病が明らかにされる。
昭和19年11月29日。
その時の空襲のシーンが回想される。
空襲警報が鳴り、正吉がたまに声を掛けるが反応はなく、部屋で倒れている母を発見するが、ここでも反応はなく、正吉は警報の中、医者を求めて走り続けるのだ。
「息子の俺っちが言うのもなんだけどね、家の親はや、二人とも、実にようできた人たちなんだに。苦労に苦労を重ねて店を開いて、実直に商いをしてきただに。毎朝、使用人の誰よりも早く起きて、働き続けてきたし、俺たちは、何不自由なく育てられたんだに。うちの両親より正直な人たちにゃ、おら、会ったことがないに」
「そういう親に育てられると、自然と孝行したくなるだいに…」
「それにしても、お前の頑張りには恐れ入ったよ」
「なかなかのもんだに」
「青瓢箪の割には」と正吉。
正吉は一貫して寡黙である。
翌朝、トロッコが出ないので、もう一泊することになる。
そこで便利屋は帰ると言い出すが、旅館の娘たちが部屋に入って来ると、あっさり前言を翻し、もう一泊すると娘たちに話し、調子づいて布団の片づけを手伝ってみせるのである。
その可笑しな様子を見て、思わず笑みが零れるたま。
「お前が羨ましいや。俺は文学が好きだったけんど、それで食っていけると思わなんだ。だで、家業手伝うことにした。けんども、お前は夢を叶えたんじゃないか。その夢、あっさり手放しちまって、ええんか?」
「夢なんて、この国にはないよ」
兄弟の会話の切実さが、観る者に伝わってくる小さなエピソード。
外の空気を吸ってこいと敏三に言われ、河原に散歩に行くと、旗を振って出征兵士を見送りに行く小学生と教師の姿が目に留まる。
兄の言葉に押されるように、正吉は、それを指で模(かたど)ったファインダー越しに追い、勇ましい生徒たちとは異なり、憂い顔の女性教諭の表情をしっかりと捉えていた。
【後の「二十四の瞳」のモチーフとなるショットである】
映画を離れても、映画を思う若者の心は変わらないようだった。