小林多喜二('74)   闇があるから光がある

1  「闇があるから光がある。闇から出てきた人こそ、一番本当の光のありがたさが分かるんだ。世の中は幸福ばかりで満ちているもんではないんだ」

 

 

 

一九三三年(昭和八年)二月二十日 東京・赤坂・福吉町

 

日本共産青年同盟の詩人・今村恒夫と共に、赤坂の連絡場所に訪れた小林多喜二が、特高に捕捉され、名前を自供しない多喜二に写真を見せたところで、毛利特高課長が取調室に入って来た。

 

「よう、小林。とうとうふん捕まったじゃないか。恐れ入ったろ」

「こうなったら仕方ない。元気でやろうぜ」

 

多喜二が今村に声をかけるや、それぞれ別の取調室に入れられや、多喜二への言語に絶する拷問が始まった。

 

木刀で激しく殴打され、大腿部を踏み潰された挙句、天井に吊るされた多喜二の太腿にキリを刺し込み、更に木刀で強打され続けるのだった。

 

「1933年月20日、小林多喜二は築地警察所で、拷問のため29年4カ月の生涯を閉じた。安らかに眠り続ける彼の墓前に、一束の小さい、しかし真っ赤な花束を捧げる。思いを込めて。今ここに彼の生涯を…この画面に蘇らせて、あなたに送る」(歌によるナレーション)

 

ナレーターが、多喜二の遺体に真っ赤な花束を載せた。

 

小林多喜二は、明治36年10月13日、秋田県喜多郡下川沿村(しもかわぞいむら/現大館市)川口に生まれた。秋田の村で過ごした幼年時代の思い出は、多喜二の作品の中で、こんな風に描かれている」(ナレーション)

 

『転形期の人びと』より

 

野良仕事で帰って来た父親が、土間で寝転び、幼い多喜二の手を胸に当てさせると、心臓が時計のように鳴っていた。

 

そこに母・セキが帰って来て、心臓が弱っている父の草履を取り外す。

 

「父ちゃんは働くために生まれてきた、仏さんみてぇな人だもな」

 

「多喜二はまた、こんなことも書いている。私の母は、毎年十二月の二十何日かには決まっておこわを作って、その日になってたくさん雪が降ってくると喜んだ。これで安心したと言う。しかし、折角おこわを作っても、雪の降らない年があると暗い顔をした。母はいつか、そのことの由来を話してくれた…昔、昔、母の生まれた村にたくさんの子供を抱えた小作が住んでいた」(ナレーション)

 

「おど(父)さんは、毎日毎日、ずぶん(自分)ではひとつもまんまも食わんで、子供だちばっかに食わしてきたんだが、それでもどんずまりまで来てしまった。おどさんは、とうとう『神様、私はこの10何日のうち、ひとっつぶのまんまも食わねでやってきました。それだのに、子供だちはもう死にそうです。私は決心しました。今夜、子供だちを助けるために、地主さんのとこさ、盗みをしにまいります』。それが十二月の二十何日かで、おどさんが米俵背負(しょ)って出ていくと、神様の助けが、雪がどんどと降ってきて、歩くあど(あと)からあどから、おどさんのあすあと(足跡)を消してくれたんな」(母のナレーション)

 

「一家をあげて、北海道の小樽に移住したのは、多喜二満4歳の年の暮れ、大雪の降るある夜のことだった…冬が近くなると、『ぼくはそのなつかしい国のことを考えて、深い感動に捉えられている。そこには運河と倉庫と税関と桟橋がある。そこでは、人は重っ苦しい空の下を、どれも背をまげて歩いている。ぼくはどこを歩いていようが、どの人をも知っている。赤い断層を所々に見せている階段のように山にせり上がっている街を、ぼくはどんなに愛しているか分からない』」(ナレーション)

 

パン工場で働きながら、伯父の援助で小樽の商業学校へ通えることになった父に知らされた多喜二は、泣いて喜ぶ。

 

「中学へ入った頃の思い出を、多喜二は後でこう語っている。『早く卒業して月給取りになり、貧乏な親たちを助けたいと思っていた』学校に通う長い道を、鉱山を発見して、母を人力車に乗せてあげることばかり考えていた。上級生になると、彼は絵を描き始め、子羊係というサークルの中心メンバーになった。往来の露店からは、北海道名物トウモロコシを焼く芳ばしい香りが入ってくる…これが多喜二少年の作品である。彼の才能は当時の地方新聞からも認められていた」(ナレーション)

 

伯父からは勉強を優先し、絵を辞めるように言われ、それから多喜二は文学に親しむようになる。

 

多喜二は、伯父の援助で更に小樽高等商業学校、現在の小樽商科大学に入り、そこで文芸評論家の大熊信之に教えを請い、熱心に質問をしていた。

 

その様子を見ていた、のちに作家として大成する伊藤整(せい)が多喜二との思い出を書いており、思想も立場も異なってはいたが、多喜二の死を悼んで文学碑を建てるために尽力した。

 

大正13年、21歳で小樽高商を卒業した多喜二は、北海道拓殖銀行に入社し、勤務の傍ら、職場の女性たちに協力してもらいながら小説を書き始める。

 

多喜二が21歳の暮れ、同僚に誘われた「やまき屋」で、酌婦のタキと出会い、生涯の恋人となる。

 

「闇があるから光がある。闇から出てきた人こそ、一番本当に光のありがたさが分かるんだ。世の中は幸福ばかりで満ちているもんではないんだ」と、タキへの手紙に綴る多喜二。

 

『その出発を出発した女』より

 

【女(タキのこと)は受け取った手紙を読んでいないと言う。

 

男(多喜二のこと)は愛を告白するが、女は「恐ろしい」と受け付けない。

 

「あなた、私みたいな商売の女、嫌でしょ?」

「多分ね」

 

店の外に出て、男は本心を聞き出そうとするが、「もう少し待って」と答える。

 

「待つのはいいよ。じゃ、約束する」

「私、あなたの…そんな資格なんかないの」

 

男はそれを遮り、「約束したよ」と念押しして帰って行った】

 

後日、多喜二とタキは小樽の海辺で会い、砂浜に大仏の絵を描いたり、啄木の詩集を読み合ったりして愛を育くむ。

 

大正14年、22歳の多喜二は友人たちに借金し、母の許しを得てボーナスもつぎ込み、遂にタキを酌婦から身請けして自宅に招き入れた。

 

母と弟と、タキと多喜二と4人の生活が始まり、小林家に春がやって来た。

 

そんなある日、多喜二がタキと「やまき屋」の息子との関係の噂を聞いてタキを問い詰める。

 

「許して」と言って事実を認めたタキは、この家で良くしてもらって、それが辛い、と泣きながら訴えるのだ。

 

「あたしみたいな女、やっぱし出たほうがいんでないかしら…」

 

そんなタキを多喜二は優しく抱き締める。

 

その頃、多喜二の母校・小樽高商では軍事教練反対闘争が起きて、大凶作に襲われた北海道では小作争議が激化した。

 

「こうした時代の鼓動は、青年多喜二の胸を激しく打った。持ち前の努力と情熱を持って、社会科学の学習を始め、次第に政治的実践に近づいたのは、昭和2年、多喜二24歳の頃だった。一方では、タキへの愛に悩みもした。彼女は一片の書置きを残して、家を出てしまった。多感な青春の日々を、彼は、同人雑誌『クラルテ』で仲間たちと語り合い、文学の勉強にも打ち込んでいった。特に志賀直哉の作品に傾倒した…」(ナレーション)

 

そんな折、志賀の親友である里見弴(とん/有島武郎実弟白樺派の小説家)と芥川龍之介を迎えて文芸講演会が小樽で開催された。

 

多喜二は宴会の席で、里見を捉まえて志賀作品の持論を展開し、友人に諫められる。

 

芥川はこの後、時を経ずに自殺する。

 

「昭和3年1月1日の夜、25歳の多喜二は日記にこう書いた。さて、新しい年が来た。昨年は何をやった。タキが『復活』のカチューシャと同じように、自分から去って行った。思想的に断然マルキシズムに進展していった。俺たちの時代が来た。我ら何を為すべきかではなしに、如何に為すべきかの時代だ」

 

初の普通選挙実施で小樽にやって来た労働農民党の山本懸蔵候補の演説会に参加する多喜二は、選挙応援活動に奔走する。

 

【山本懸蔵は古参のコミュニストで、スターリンの大粛清時代に野坂参三の密告によってスパイ容疑で逮捕・処刑された。自らも複数の同志を密告して死に追いやったが、そういう救いようがない負の時代だった】

 

『東倶知安行』(ひがしくっちゃんこう/倶知安町ニセコ町と隣接し羊蹄山がある)より

 

「娘を売り飛ばし、子供を工場へやり、自分の作った米を食えず、イモとカボチャばかり食っている。その生き血のような金が銀行の手に入り、そしてそこから株主、その偉い金持ちの懐にたんまり入って行く。もう誤魔化されてはならない!」

 

しかし、山本懸蔵は落選し、当時の田中義一内閣は治安維持法(1925年)を発動し、選挙戦に奮闘した労働者、農民、知識人を弾圧。

 

田中義一は各大臣を歴任した陸軍大将で、張作霖爆殺事件の責任を負わされ内閣総辞職した。また治安維持法は、日本共産党を中心とする共産主義活動を抑圧するために制定され、ファシズムの初発点となる思想弾圧の法と化す】

 

昭和3年3月15日の午前4時から始まった一斉検挙で捕らえられた者は全国で約1700人、共産党関係者488人が起訴された。

 

世に言う3.15事件である。

 

章を変えてフォローしていく。

 

人生論的映画評論・続: 小林多喜二('74)   闇があるから光がある  今井正