「誰も知らない('04) 是枝裕和  <大いなる空砲の幻想>

  「誰も知らない」という映画で描かれた、苛烈な小宇宙の物語の最大の問題点は、4人の子供たちを半ば遺棄した馬鹿親たちの絶対責任を、他の何ものかに責任を転嫁して稀薄化したことである。

 ラストシーンに於ける、「子供共和国」への出撃という無意味な感傷を映像に貼り付けたことで、彼らをそこまで追い込んだものへの責任の追及が、明らかに中和されてしまった。

 それでなくとも、声高に叫ばない淡々とした映像のうちに、アパートの一室で起こった不条理で、苛酷な状況のリアリティが吸収されてしまっているので、作り手にこの映画を作らせようとした、その拠って立つ感情や思いが拡散されてしまった印象が残るのだ。
  「結局、どんな状況でも子供は強く生きていく」というメッセージが有効なのは、彼らが強く生きていくだけの外的環境と内的条件が、その有効的臨界点を越えない限りに於いてである。

  勿論、創作の自由の範疇で、その物語の展開を恣意的にいじることはどこまでも許容されるだろうが、しかし明らかに、そこに陰湿な事件があって、その事件によって決定的なトラウマに囚われたかも知れない被害者が存在し、しかもその事件の報道が、センセーショナルな話題を撒き散らせた影響力を持つ題材を選択するとき、相当な覚悟と責任意識を持って映像化することが絶対的に求められるはずだ。

  穿って言えば、そんな意識が背負うリスクを軽減するために、後半以降の、絶対にこんなことはあり得ないと思わせる、不可解なアンチ・リアリティの展開を導入したのではないかと思われるのである。そこに過剰な創作性を導入することで、映像としての勝負を回避したのではないかとさえ印象づけられる所以である。
 
  電気やガスが止められ、家賃も払えないどころか、その日の生活も事欠くような一日勝負の苛酷な状況が開かれてから、母親代わりの長男が、束の間野球に興じる子供心を見せつつも、ミニスーパーマンもどきの獅子奮迅の描写には、この物語は、長男の自立に向かうハードな魂の記録ではないかと勘違いさせるほど、映像が別の何ものかにシフトしていったかのようだった。

  恐らく作り手は、この辺りからオリジナルのシナリオを無視して、大人の理念に長男の自立を合わせていく物語に変えていったのではないか。題材のあまりの重さが、作り手の覚悟のなさを晒さないようにして、「それでも子供は生きていく」という無難な感傷のうちに逃げ込ませたように思えてならないのだ。

  この映画のモデルとなった事件の少年が、実母を恨んでいないというような報道が当時あったが、まさか作り手は、苛酷な状況に置かれた子供たちが、一様に親を恨まないような表現をするときの、その深層に対する洞察を読み間違えたとは思えないが、それにしても、作り手の把握の脆弱さが際立ってしまうのである。

 
(人生論的映画評論/「誰も知らない('04) 是枝裕和  <大いなる空砲の幻想>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2008/10/04.html